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後世の観客

更新 2016.06.16(作成 2014.03.14)

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第7章 新生 18.後世の観客

後で調べてみると平田を脅嚇したその所長は、移行時に1ランク資格が下がっていた。それでも賃金は補償されているはずだ。ただ、4月の賃金改定においてキャンセル給が前年度年間評価によって下がっていた。これは移行ではなく運用だから保障されない。しかし、それも今年頑張れば来年は取り戻せる。ここずっと評価が悪いから資格も下げられ、評価が悪いからキャンセル給も評価ランクに洗い替えされた。そうした一連の仕組みが十分理解されていないのか、はたまたそうした仕組みに変えた平田が憎いのか。
ただ、サラリーマンにとって大事なのは金だけじゃなく、資格とか職位とか、体面や名誉の部分のウェイトが大きいのは確かであろう。
この所長も、賃金さえ補償されればそれでいいのかという問題を投げかけてきているのだ。人間としての誇りが大いに傷つけられたのだろう。
ただ、平田の周りの最近入社した若い社員の中には、責任を負うのが嫌という理由で昇進を敬遠する者もいるが、それでも賃金は多いほうがいいようだ。そんな彼らにポスト以外でやる気を引き出す方策として、成果主義、実力主義がいいという結論に至ったのだ。
片や名誉がいる。片や賃金がいい。その両方を成果や実力で処遇と結びつけ、社員のやる気を引き出そうというのがこの制度である。その制度にうまく乗り移れなかったのがこの所長なのだが、それは成果主義という時代の潮流に取り残された結果だとも言える。
しかし、それは俺のせいか。実力主義、成果主義に変わりますよ、と散々言ってきており、それはプロジェクトも人事部も全役員も組合も、みんな賛同してくれたことじゃないか。
もっとも、この所長が言う人間としての尊厳や名誉という点において、実力主義、成果主義に名を借りた何らかの不作為があったとするならば、それは大いに糾弾されても仕方がない。しかし、散々死に物狂いのディベートを尽くしてきた平田に「それはないハズだ」との思いは強かった。仮にあったとしても、今の平田にそれを受け止めるゆとりはなかった。
それでも平田は、「それが実力主義、成果主義じゃないのか、名誉も地位も金も、実力で勝ち取るのが実力主義じゃないのか」、と叫びながら「あなた1人が気に入らなくても、私は進みます」と、闘志が湧かない分、逆に意地だけを滾らせていた。
“今ここで自分が挫けたらせっかく任せてくれた人を裏切ることになり、元も子もなくなる”意識の深層で信念だけがもがいていた。
ただ、制度移行後のアフターケアがいかに必要かは思い知らされた。

それから数日を待たずして再び新田から呼び出しがかかった。
この呼び出しをどれ程待っていたことか。平田の精魂は、もう限界のところに来ていた。
今日の新田は少し機嫌が悪かった。自分が容喙しなければならなかったことが気に食わなかったのだ。
「椿さんから何か言われたか」
「いえ。何もありませんが」
新田は椿の苦悩を感じ取った。だが、あれだけ話しておいたのだからいずれオファーがかかるだろうと思った。
「椿さんと話しておいた」
「あっ、そうでしたか。ありがとうございます」
「俺が直接関与しようかと思ったんだが、そこまでするとあの人も面白くないだろうから普通にやってくれ」
「えっ、そうなんですか。私はそっちのほうがやりやすいですけどね」
「うん。実質はそうならざるを得んだろう。椿さんには退職金はわからんだろうからな。形の上だけだ」
「だって、まるっきり考え方が違いますから」
「うん。まあ、それはそれでいいんだよ。違う血も入れることで制度に腰が出る。どっちがどれだか踏ん張れるかでどれだけ本物かがわかる」
平田は、新田が2人を試していると思った。
“それなら思いっきり暴れてやれ”
平田に闘志らしきものが微かに目を覚ました。
これが平田に火を着ける新田流なのかどうかはわからない。しかし、平田の心に微かだが再び火が点ったのは確かだ。
「大体どっちの方向に進むかわかってるな」
「ハイ。ポイント制でしょう」
「それだけじゃないぞ」
「まだ何かありますか」
「うん。過去勤務債務を減らすようにしてくれ」
「カーブを寝せるだけではいけませんか」
「予定利率だな。これも下げる」
「はい。なるほどですね。もう5.5%なんて無理ですもんね」
「そうだ」ここまでは当然という顔をしてさらに続けた。
「それから水準も下げるぞ」
「どれくらいですか」
「部長クラスで3000万円。課長が2700万円。係長で2300万円だな」
「随分厳しいですね」平田の思惑より少し厳しかった。
「当然だよ。そうしないと彼らの雇用が難しくなる」
「しかし、彼らも苦しんでいますからね」
平田は、先日の所長から投げかけられた「家に火を着けちゃろか」の言葉を思い出しながら抗弁した。
「所長になって何年も自己改革を怠ってきたのだ。苦しむのは当然だ。だけどそれじゃ首にするのかってことになるだろう。会社はこれから一大局面を迎えることになる。その前に身軽になりたいんだ。過去のあらゆる負債をできるだけ清算したい」
新田は何か会社の重大事項を知っているようだったが、それについての平田の追求は許さなかった。
「嫌というわけではありませんが、また私が怨まれるんですね」
平田は、先日の所長の言葉が痛いほど身にこたえている。思わず顔を曇らせた。
「おまえしかいないじゃないか。いいか。人というのはな、『後世という観客の前で振る舞わなければならない』と司馬遼太郎さんが言っている。今お前が立ち回らなければならないのは、この古い所長たちの将来に対して責任ある振る舞いだ」
これは平田の信条と一致するところもある。平田も仕事とは将来に対する責任だと常々考えている。今さえ良ければではなく、例え今は厳しくても将来良かったと言われる仕事を今しなければならない。
新田は読書家で、中でも司馬遼太郎は好きなようだ。よく話題にする。
「厳しいかもしれないが、これしか彼らを救う道はないと思うぞ。優しいだけではいい制度ではない。真の意味で優しくなければ本物ではない。首を切らずに済む処遇方式を考える。それが本当のいい制度だ」
平田は、新田の心の奥を見たような気がした。これが新田の、本当の優しさかもしれない。

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