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解任の余燼

更新 2016.05.27(作成 2011.05.25)

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第6章 正気堂々 10. 解任の余燼

樋口とY建設社長が会見して、それからおよそ一月後。夏の猛暑も峠を越え、朝夕が涼しく感じ始めた8月終わりのころである。労働組合委員長の坂本は樋口に面会を申し入れた。
余程の緊急要件がないかぎり、委員長の面会はすんなり通る。会社の一方の組織の長である。たまには邪魔なときもあるが疎かにはできない。2人が会うときは大概社長室で2人きりが多い。近頃は坂本もすっかり慣れて、位負けなどして遅れを取るようなことはけしてなくなった。
「社長、以前団交を通じてお話した土地購入に絡む不正の件ですが、その後どうなりましたか。三役団交の手前このまま放置しておくわけにいきません。2人の処置を担保に賞与を妥協した経緯があります。組合の定期大会も近づいてきまして、会社の対応いかんによっては組合も旗幟を鮮明にしなければならない場合が来るかもしれません。今日は、はっきりさせていただきたいと思ってお伺いしました」
「まあ、そういきり立ちなさんな。わかっちょる。君らには借りがあったな」そう言って樋口はソファーに席を移した。
「まあ、ウラを取ったり、マル水に根回ししたり、いろいろあるんじゃよ。何も準備もなしにいきなり切り込むのは“匹夫の勇”といってバカのすることじゃ。知っとるじゃろ」
とはいえ、この段階で樋口はマル水に根回しなどしていなかった。年末の決算拡大取締役会で十分事足りると踏んでおり、今はその必要はないと思っていた。委員長の手前、そう言ってみせたまでだ。
「そりゃ、知っていますがあまりにも対応が遅いものですから」
「うん。今言ったようにいろいろあるんじゃよ。次の総会ではっきりする。それまで待ってくれ」
「次の総会ですか。そんなにかかるんですか」
「今すぐ首にするわけにはいかんじゃろ。どうせもう、どんなにあがいても逃げられんよ」
「ウラは取ったんですか」
「まぁ、そんなことはなー……」と後を濁した。
「どうやって取られたんですか」
坂本も確証がないと安心できない。
「まぁ、その辺は君だって言えないだろ」そう言う樋口は、坂本に意地を張っているようだった。
「じゃが、君なら想像がつくじゃろ」
「まぁ、そうですね」坂本も曖昧な返事を返したが、
「それじゃ、間違いなく次の総会で決着が付くんですね。間違いありませんね」と、しつこいくらいに念を押した。

坂本が帰ったあと、樋口はそろそろ潮時かと考えた。いつまでも宙ブラリンにしておくわけにもいかない。
“浮田とY建設社長との接触もあるだろう。早めに決着をつけておくか”
この間、浮田や河村らは、この件に関し何の動きも見せなかった。急ぐ案件でもないし、急いては事を仕損じてもいけないと考えていた。それにたまたま時期的に夏商戦の最盛期であり、2人は営業所支援や激励に出かけたり、製造現場を励ましたり、日常業務に忙殺されていたのだ。
一方の樋口も、Y建設社長との会談後今日まであえてこの問題を放置していたのは、浮田らがその後どんな動きをするか見たかったのと、新井常務解任の余燼がまだ燻っており、無用の2人ではあったが解任を言い渡す役割はやはり重く、なかなかその気になれなくて今日までずるずると来ていたからだった。
「解任を言い渡す」それは1人の人間に対し死刑を言い渡すようなもので、時には冷厳な心を持ち合わしていなければ出来ない。しかしそれは、会社を、社員を、愛する熱い心があればこそ心を凍らせてもやらなければならない仕事なのだ。
坂本に背中を押される形となり樋口はやっと腰を上げた。
秘書に浮田と河村を呼ばせると、机に両肘をつき手で顔を撫でながら深いため息を漏らした。こんな嫌な役目のときが一番孤独を感じる。
社長室に呼ばれた2人は、まだどんな要件か察知していなかった。ただ、2人が呼ばれるからには研修センター建設絡みだろう、くらいに考えていた。
社長室に入ってきた2人は、当然ソファーで話があるものとソファーの側に立ったまま社長が席を立ってくるのを待った。
社長室は、入り口側から見ると正面にケヤキの無垢材でできたブラウンの大きなデスクがこちらを向いて据えてあり、入り口との間にテーブルを真ん中にした皮張りの応接ソファーが広がっている。ライトブラウンの色合いが何ともいえない高級感を漂わせている。
しかし、今日の樋口は席を立たなかった。
「まあ、こっちに来てください。話が遠い」樋口は2人を呼び寄せた。
2人は社長のデスクの前に並んで立ったが、川岸のように背筋を伸ばして行儀良く起立することはない。どちらかというと面倒くさそうに背中を丸くし踵も開いている。そんな不遜な態度を見せるのも、中国食品の中ではこの2人だけだ。そんな小さなことも樋口にこの2人を疎ましく思わせる原因の一つになっていた。あの後藤田でさえ立場をわきまえて礼儀正しかった。
浮田らは、いつものようにソファーじゃないことにただならぬ気配を感じ取った。
樋口は背もたれに身を預けながら2人の顔を交互に見比べた。その目の輝きには憎しみも怒りもなんの感慨もなく、無表情にむしろ虚ろにさえ見えた。
2人は樋口がこんな顔をするのを初めて見た。いつもは何がしかの意志と覚悟を湛えているのだが、今日の樋口は諦観していた。それがかえって不気味に思える。
「2人に確認したいことがあって来てもらいました」
樋口はゆっくりと切り出した。2人にも緊張が甦った。
「もう一度確認するが、研修センターの隣の土地を買うのは何のためですか」
2人はただならぬ雰囲気の中で、あまり積極的には口を出したくなかった。出せば責任が重くなる。2人とも自分が首班であることをひたすらぼかしたかった。

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