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 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.3-20

更新 2016.04.26(作成 2007.04.25)

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第3章 動く 20.解

年末年始の日常行事は、気分の切り替えにちょうどいい緩和剤になった。
年明けから心機一転、平田はまた元の要求基準作りに取り組んだ。
平田は本を家に持ち帰り、夜遅くまで資料研究に没頭した。早く帰ると子供たちに邪魔されるので組合事務所で一人残って勉強し、子供が寝静まるころを見計らって帰宅した。土日も組合事務所に出かけて一人で勉強した。
平田は、いろんな本を読み漁りながら、そんな中でも何か問題を解きほぐすヒントや取っ掛かりになりそうな事柄をメモしていった。そして、その事柄を深く考えた。
しかし、確信するまでの思考に至らなかった。来年の運動方針作成までという限られた時間の中で、焦りだけが高まっていった。

2月に入ると賃金改定の日程に入っていく。会社の状況が状況だけに、執行部は世間よりはるかに控えめな要求案を中央委員会に掛けた。
その中央委員会の席上のことである。休憩時間となり平田が窓のそばで外の空気を吸っていると、米子出身の石本委員が両手にコーヒーカップを持って平田に近づいてきた。
「平田さん、私たちはどんな生活をしたらいいんですか」と、1つを平田に差し出しながら話しかけてきた。
「ありがとうございます。どういうことですか」
「私は女房と子供2人の生活なんですが、そりゃもう質素なもんですよ。女房もパートに出ていますがゆとりが全くありません。車だって中古を乗りついでいますし、旅行なんかも行ったことがありません」
「ウン、私もそんなもんですよ」
「世間の皆さんは、みんないい生活しとられるやないですか。私たちはどこまで頑張ったらいいんですか。将来の夢とか希望とか持てないものですかね」
「なるほど、そう言われるとそうですよね」
「今回の要求も世間より低いし、ますます格差が開いていきます。なんか将来ビジョンみたいなものを描いてくださいよ」
「あっ、そうか。それや」平田は、目を見開いて石本の顔を見つめた。
「急に、どうしたんですか」
「イヤ、いいことを言ってくれました。石本さん、ありがとう。わかりました。それです」平田は、自らのテーマの解を石本の一言に見つけた。
平田は、席に戻り今のひらめきを忘れないようにメモッた。
“そうか、ビジョンがないのか。それじゃ希望は持てんよな。うん。要求基準なんてテクニカルなことじゃないんだ。将来ビジョンを打ち出すことなんや。ヨーシ、わかったぞ”
もう、平田の頭の中はそのことでいっぱいになった。イメージだけをどんどん膨らませ、大事な要求設定の議論も書記長の進行に任せて上の空だった。
帰りしな、石本が再び近づいてきて、
「それともう1つ疑問があるんです」
「はい、何でしょう」
「わが社には、山陽地区の人だけに地域手当が付いているじゃないですか。わずか3,000円ですが本当にいるんですかね。何を根拠に付いているのか、金額は妥当なのか、研究してみてください。物価が高いといいますけど、山陰地区だって暖房費なんか山陽地区よりはるかに掛かりますよ。3,000円くらいなら、わざわざ付けるような金額かなと思いますし、その程度の格差まで厳密に調べた上でのことですかね」
「わかりました。ちょっと調べてみます」
“ウーン、これも過去の遺物だな”平田はそうつぶやきながら、数年前に地域手当が設定されたときのことを思い出していた。
“賃金の公平性とは、こういうところにもあるのだな”本に書いてあった公平性の一端を考えさせられた。
後で前賃金部長に確認すると、この地域手当は数年前の賃金改定交渉の残渣だという。それを利用して筒井部長が提案して成立したものだった。
“山陽地区は物価が高いだろう。特に家賃なんかは広島は高いと思う。あと少し昇給原資が残っているから地域手当を設けたらどうか”ということで決まったそうだ。
しかし、それを検証せずに受け入れる組合にも問題があった。筒井本人を含めた本社や執行部の人間に、圧倒的に山陽地区の人間が多かったから、我田引水を計っただけのことではなかったのか。そんな憶測も働いた。
“組合員一人ひとりの声は小さいが、実感のこもった生の声である。彼らなりに一生懸命考えているんだな。こんな意見にこそ大きなヒントがある”平田は感謝した。

平田は、この2つのヒントをもとに俄然動き出した。
まず、地域手当は物価を調べるだけではダメだと思った。物価そのものは、これだけ流通が発達した現在においてはそんなに差はないであろう。地域手当は生活補完手当であり、物価手当ではない。石本が言うように灯油の消費量が生活費に影響するのであるから、生活費として調査しなければならない。
平田は、吉田委員長に家計調査実施の了解を取った。山陽、山陰の主な地域からモデル的家庭をピックアップし、家計簿を付けてもらおうというものだ。
20代夫婦2人借家、30代子供1人借家、40代子供2人借家、50代夫婦2人借家、全て借家にしたのは調査の目的が生活費の格差を見るためで、持ち家を混同すると違う要素が入ってくるからである。こうして両地区から20家族ずつ選抜し、家計簿を付けてもらうことにした。
平田は、丁寧な依頼文とともに同じスタイルの家計簿をモニターの組合員へ送った。家計の実態を人様に見せるのは抵抗がある。何人かから断りの電話がかかってきた。平田は熱心に趣旨を説明し、協力をお願いした。山陰地区の人は趣旨を説明すると、そういうことならとすぐに納得してくれるが山陽側は逆である。
「そんな損になるようなことに協力できんよ」と言う人もいる。
「だからこそです。山陰側の人たちはその不合理を受け続けているんですよ。本当に差があるんならそれもよし。なければ解消しなければなりません。その調査のためなんです。同じ組合員同士で損得があってはいかんでしょう」平田も熱心に頼んだ。
この調査は、1年間続けられ、結果は大変興味深いものが得られた。
山陽地区と山陰地区の主な違いは以下のようであった。
食費はほとんど差がなかった。むしろ山陰のほうがやや高めであった。電話で確認すると、山陽地区はスーパーなどが身近にあり安く買えるが、山陰地区にはあまりないからであった。特に田舎のほうでは近くの小売店で買うことが多いからである。山陽地区は社会インフラの利便性を享受できているのだ。
家賃もそうであった。ほとんど差がなかった。わずかに山陽地区が高いかなという程度である。これには平田も疑問を持った。広島から山陰へ転勤になった知り合いに電話してみると、広島では賃貸物件がたくさんあるが、山陰地区には物件そのものが少ないからだと言う。物がなければ少々高くても入らざるを得ない。
光熱費は差が出た。電力は同じ中国電力だから単価は同じであり、消費電力にもほとんど差はなかった。灯油代だけが冬場において山陰地区は山陽地区の倍近いものがあった。
教育費は山陽地区が高かった。私学や塾が充実しており通わせる家庭が多いからだ。
そんなことをつぶさに検証し、年間を通じてみるとほとんど生活費に差が見当たらない。わざわざ地域手当を設けておく根拠のないことがわかった。
世帯構成別でみると、子供が大きくなるにしたがって食費と光熱費がグングン上昇している。

調査結果がまとまったのは、翌年の6月である。平田は、この調査結果と地域手当の廃止をその年の運動方針に載せ、翌年の賃金改定交渉で廃止に持ち込んだ。平田が石本から話を聞いて丸2年経っている。
どんな小さなことでも、流れを変えるには多大な時間と労力を要することを平田は知った。
廃止の方法は、手当の性格を考えて家族手当(妻)に組み入れることにした。
しかし、3,000円の原資を全社に配分すると1,800円にしかならず、今まで付いていた人には減額になる。そこで、1,200円の家族手当の増額をセットで要求し、実質減額が起きないようにした。結果的に、山陰地区の人たちだけが、3,000円の増額となった。

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