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ハプニング

更新 2007.04.13(作成 2007.04.13)

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第3章 動く 19.ハプニング

広島工場は、組合事務所と同じ敷地内である。平田も業務に戻ろうと思えばすぐにでも戻れるのであるが、そんな気になれなかった。他のメンバーは既に帰途に就き、事務所は閑散としている。台風一過のようだ。
平田は、昼食を済ますと久し振りに野木のところへ顔を出した。
「ヨッ、久し振りやな。お疲れさんでした」と、野木は平田の顔を見るとねぎらってくれた。
「大変な交渉やったな」
「エエッ、力がないもんでこんな結果になってしまいました」
「いやいや、今年はこれでも大変なもんよ。ようやったよ」
「ところでチョット聞いてもいいですか。0.5カ月分は来年の支給なんですが、これを年内に支給して計上だけ来年に回すというのはできないんですか」
「ダメよ。そんなことできんよ」
「だけど、原材料なんかは金は払っても計上は後にするやないですか」
「あれらは、振れが大きいし企業会計に与える影響が大きいから貯蔵品管理して、使った分だけ経費にするよう法律で決められとるんよ。経費計上は本来金が出たときに計上するのが基本だよ。もしそれを故意にずらしたら粉飾になるよ。お前が言うように、金は出ているのに経費計上は来年なんてことにしたら粉飾決算でやられるよ。第一、監査が通らん」
「そうなんですか。決算の数字合わせだけのためと思ったもんですから」
「ウン、わかるよ。そのためだろうね。だけどそのために何を整えるかが大事なんよ。実際の支給を来年にし、協定書を結び、議事録を残して初めて可能なことなんよ。それが仕事よ」
「そうか、わかりました」
「ついでにもう一つ教えておいてやろう」
「ハイ」
「経費なんていうのは、目的に応じて処理するのが基本なんよ」
「どういう意味ですか」
「例えばやな、同じ飲み食いでもお客さんを接待するためなら交際費だし、内部の打ち合わせのためなら会議費にするやろ。何のために使ったかが大事なんよ。同じ電車に乗っても、通勤のためなら人件費の通勤費だし、出張のためなら旅費交通費だろ。費目は目的設定なんだよ。電車代という費目はないんだよ」
「なるほどね」
「賞与も、通常の業績配分なら年内の経費に計上しないと逆にやられる。だけど、今回は基本部分だし来年の支給になるから来年の経費計上で大丈夫なんだ」
経理の基本であるが、こうした企業会計の精神までは誰も教えてくれない。平田が、野木に一目を置く訳がここにある。野木の説明にはいつも心底納得させられる。

平田も、賞与交渉が終わって通常業務に戻るのであるが、彼はこの落差をあまり感じなかった。彼には、要求基準の見直しという大きな課題がまだあったからだ。しかし、いきなり取り組む気にはなれなかった。メリハリは欲しかった。
久しぶりに作田や岩井を誘って釣りを楽しむことにした。冬の最中(さなか)なので、内海でのアイナメ狙いということになった。
岩井慎吾は、釣りに行きたくてしょうがなかったのだが、平田と作田が交渉で忙しいからうずうずしながら我慢し、この日の来るのを心待ちにしていた。平田が連絡すると、「待ってました」と飛びついてきた。
平田と作田も、行こうと思えば土日に行けないこともなかったが、事故でも起きたら“大事な交渉の最中に釣りなんか行くからよ”と非難を浴びかねない。自重していた。
ところが、この日の釣りには一大ハプニングが潜んでいた。
3人は、いつものように心をウキウキさせて、岩国市の南沖にある大島の釣り場に急いだ。大島までは大橋が架かっており、車で行ける。何度も来たことがあり、それなりに実績もあるところだ。
夜明けとともに早速ゴムボートを浮かべて沖に出た。4人乗りのボートだが、最小限の釣具でも3人でギリギリである。ポイントは入り江の入り口付近で、岬と岬を結んだ線上の中央付近の藻場である。アイナメやメバルがよく釣れる。時にはビールビンほどもある大きなアイナメが釣れることもある。左右に岬の先端を確認し、「よし、この辺や」とアンカーを降ろした。
アンカーを降ろすときは、ポイントよりやや風上に降ろし、ロープの弛みの分だけ風に流されてポイントの上に来るようにするのがコツである。ところが、この日に限ってロープを巻くのが面倒くさいということで垂直に降ろしてしまった。
風は北風で岸から吹くので、この程度の距離では波はまだ大きく育たない。湾内でもあり、心地よい揺れである。
「ヨーシ、やるでー」掛け声を合図に、3人は夢中で釣り始めた。最初は釣り場が荒れてないのでよく釣れる。型のいいアイナメが次々にヒットした。ところが、ものの30分もすると全く手応えがなくなった。
「おかしいなー」を連発しながら、仕掛けを替えたり、餌を替えたりするが全く音沙汰ない。そのうちなんだか波が高くなった。
「オイオイ、どうしたん」と驚きながら、フト周りを見ると岸がないではないか。そのときやっと気がついたのだ。釣りに夢中になっている間に、ボートは風ではるか沖合いまで流されてしまったのである。
「大変ダー」と慌ててボートを漕ぎ始めた。
ゴムボートは、風に流されだすと足が速い。人の力では抗うすべもない。湾の外に出ると、潮の流れも手伝ってさらに速度を速めながらどんどん沖へと流されていく。はじめのうちは、「あそこまで帰るのか、今日中に帰れるかね」なんて余裕もあったが、漕いでも漕いでも岸は遠のくばかりである。ついに3人は諦めた。
小さなゴムボートでは、波の高さが30cmにもなると怖くてたまらない。沖に出れば出るほど風は強くなり、波は高くなる。3人の顔は恐怖にこわばった。
「体を沈めて重心を低くしよう」ボートの底にへばりついた。
「ボートの向きだけは、波に直角になるように方向を保っておこう。横波が来たらひっくり返るけね」首と手だけ出してオールを操った。奇妙な格好である。寒さと怖さで身も心も凍りついた。
「大きな船が来なけりゃいいね。大型船は避けてくれんからね。巻き込まれたら最後や」恐ろしいことになった。
原因はロープに遊びがなかったことである。ロープの遊びは、大きくても小さくても流されていずれピンと張る。そのとき斜めに張っていると、ボートの上下動はアンカーを中心に弧を描くだけで流されないが、真下にロープを張っているとボートの上下動でアンカーそのものが浮き上がる。そのたびにコツンコツンと底を叩くように少しずつ流されていくのである。そのうち完全に底を切ってしまい、後は木の葉のようなものだ。どんな船でもアンカーを斜めに張っているのはそのためかと初めて知った。
釣り竿にタオルを括りつけ、救助の合図の用意をした。
「漁船でも通ってくれんかな」祈るような気持ちで待った。釣りをしているとき、邪魔な漁船はよく通るのにこんなときに限ってなかなか来ない。こんな恐怖は30分も味わったら十分である。
幸い、ナマコ採り漁船が通りかかった。タオルを括りつけた竿を必死で振ると近づいてきてくれた。
「あんたら、こんなとこで何しよるんかね。死ぬよ」漁師はそう言って3人を船に引き上げてくれた。
「すみません。助かりました」船の上で3人はぐったりとした。
生きた心地がしないとはこういうことをいうのであろう。
漁師は、岸の近くまでボートを引っ張っていって、3人を降ろしてくれた。
聞くとナマコはあまり採れていないという。市場に卸すと1万2、3千円になればいいほうだというので、お礼に全部引き取ることにし、2万円を渡し、お礼を言って別れた。
今までも、釣りの最中に釣り針でゴムボートに穴を開けたことがある。海の上で応急処置をし、手動で空気を入れ、ワーワー言いながら釣りをしたこともある。笑い話は尽きない3人であるが、今回は命からがらの出来事だった。
しかし、3人はそんな出来事の後も、
「このナマコをどうするかね。近所に配らんといけんな」「喜ばれるよ」などと軽口を叩きながら釣りを続けた。懲りないバカたちである。
このバイタリティこそが、団塊世代の真骨頂だ。このエネルギーが昭和の一時代を築いたといっても過言ではなかろう。

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