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最大の意思表示

更新 2013.07.12(作成 2013.07.12)

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第6章 正気堂々 87.最大の意思表示

久し振りに藤井が顔を見せた。
一難去ってまた一難。自分の悩みもなかなか尽きないことを告げると、藤井も同じことを考えていた。
「平田さんが上がっても少しもおかしくはありませんが、1年でいいからこの制度の適用を受けた結果であってほしいですよね。そうすれば誰も文句は言えない」
藤井はまず純粋に制度を運用し、その制度の基準でもって昇格でも昇進でもするのが理想だと説いた。
しかし実際の人事は動いており、新制度ができればそれに向けて定期人事異動という現実がなだれ込む。
「そうなんよ。このままでは上がってしまうんでね、弱ってます。そうかといって、データを改ざんすることは絶対できないでしょう」
「それは絶対ダメです。永遠に残りますし、なんのためにやっているのかわからなくなります」
「うん。部長か常務のところでストップかけてくれたらいいんですがね」
「ご自分で申し出られたらどうなんですか」
「うん。それも考えたんだけど、思い上がるなって言われそうで言い出しにくいんよ」
「言い方でしょう。制度をスムースに全社に浸透させるためということならいいんじゃないですか」
それも重い十字架である。大義があればそれでいいってことではない。
会社というのは、生身の人間の集合体だ。人間のありとあらゆる心の機微が複雑に絡み合い、凌ぎ合う微妙なバランスの上に成り立っている。1人の人間の吐き出すエネルギーが、いろんなところで作用し合い、干渉し合って収まっているものだ。
平田を人事に呼んだのは川岸であり、それを受け継いだのは丸山である。そしてその上で新たに管理本部長となった新田が、うまく平田を使っている。
それは何かを成さんとするための人事であって、そこにはそれぞれの思いがこもっている。
それに人事権を行使する者の立場もある。ただ単に駒として使いこなすだけでなく、力にあった処遇もしていかなければ「俺もあんなふうに使い捨てられるだけか」と他の者が動かない。
役員ともなると社員からの信奉も自分を支える大きな力だ。信頼を失うような真似はできない。
そんな思いが渦巻いている組織の中で、それに逆らって申し出ることは重大な反逆である。長い間組織の中で生きてきた平田は、その重さは身体に沁みている。
どんなに合理的で論理的に構築された制度も、それ自体は無機質なものだ。運用という人の意思が入ってはじめて生きた制度になる。
運用開始を目前にして、平田と丸山がお互いの意思と思いをどのように織り込むのか、新田がそのことをどのようにジャッジしていくのか?平田の処遇をめぐって新たな展開が始まろうとしていた。

その2日後、平田は思い切った。
「部長。ちょっと、お話があるんですが」
平田の緊張した面持ちを察した丸山は、「向こう行くか」とコーナーをアゴでしゃくった。
「上に行きましょう。第3を押えていますので」
人事部の上は大小の会議室がある9階フロアーだ。
話を切り出す前に事前に予約システムで押えておいた第3会議室に平田は先に入っていき、壁際のスイッチで電気を点けた。
「コーヒーを買ってきます」
「おう、これで」と丸山はドル入れを出そうとしたが、「今日は私が」とさえぎり「いつもご馳走になっていますから」とすぐ横の自動販売機でカップコーヒーを2杯買ってきた。丸山の好みも承知している。
丸山は平田が差し出したコーヒーを「サンキュウ」と受け取り、「どうした」と切り出した。
「その前にお断りしておきますが、決して人事のことに口出しするつもりではありません。そのことだけは言っておきます」
「うん。そんなことはわかっちょる。それで?」
丸山は、お前に断わられなくてもそれくらいの心情は読めるよ、と平田のそんな前置きを面倒臭さそうに言い放った。
「実は今回の制度移行で、データ上私は昇格してしまいます。そこのところを部長がどのようにお考えだろうかと思いまして、ちょっとお伺いしたいのですが」
「そうか。昇格するか」
「はい。これまで何かとお気遣いいただきましたので」
丸山は感情を押し殺して何かを考えるふうに腕組みをした。
平田は机の上で指をからませ、丸山の考えがまとまるのを待った。
「昇格したらまずいか」
丸山がポツリと聞いてきた。
「お前はなにが言いたいのだ」
「以前にも申しましたが、これまで私はひたすらいい人事にしたいとそればかりを願ってまいりました。制度はそのためのベースです。肝心は運用にあります」
「うん。そうだ」
「今やっとその運用が始まろうとしているときに、いきなり担当者である私がいの一番に昇格なんかしたら結局自分のための制度かよ、ってなるじゃないですか」
「……」
「それで、できれば部長のほうで1年保留にするとかしていただければうまく収まるんですが」
「お前は昇格しなくていいのか」
「構いません」平田はキッパリと言い切った。
「私はとにかくいい人事にしたいだけですから。今年昇格しなくても、真面目にやっていればいずれまたチャンスが来ます」
「じゃが、来年も俺がいるとは限らんぜ。それでもいいのか」
「そうなれば、それはそれで運命です。部下は上司を選べませんから」
「そうか……。じゃが、それは少し思い過ごしだと思うぜ。世の中ってそんなに狭量な心の持ち主ばかりじゃないだろう。そりゃあ中にはそんな奴もいるかもしれんが、そんな奴のことなんか気にすることあるもんか。そんな奴こそ昇格できないようにするのが今度の制度だろ」
「しかし、やはり円滑にスタートしたいんです。こういうことって結構風当たりが強いんです」
「まあ考えてみるが、お前も意固地じゃのう。俺や新田さんの気持ちは考えたのか」
平田はドキッとした。丸山や新田の平田に対する愛情は十分すぎるくらい感じている。制度一途でそこまで考え切れなかった自分を悔やんだ。
「すいません!」大きな声で頭を机に擦り付けた。
それは、2人の思いを考え切れなかったことへの謝罪と、それでも許してもらえますよねという甘えの両方の意味が含まれていた。
「まあ、新田さんがどう思っているかもあるし、人事は会社の最大の意思表示だからな。お前の気持ちはわかったが今すぐどうこう言えることではない。預からせてくれ」
「すみません」もう一度頭を机に擦り付けた。
丸山は、自分の昇格を断わる人間を初めて見た。
“なるほど。この本気度が他の奴を圧倒するんだな。適わないはずだ”
丸山は、改めて平田の本気を見た。

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