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遠交近攻

更新 2013.04.15(作成 2013.04.15)

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第6章 正気堂々 78.遠交近攻

「俺は前々から言っているように、今の我社の二頭立て政治はだめだと思うんよ。どんなに樋口さんが主導権を握ってやっているとはいえ、意思決定に余計な段取りがかかるし、根回しも2人にせにゃならん。意見も割れるしいらぬ気も使う。どうせ主導権を渡さんのなら自分がやればいいんよ。老害も出始めているしそろそろ引退してもらわんといかんと思っています」
「マル水を見習えばいいのになー」
「そうなんよ。マル水は引退したら一切口出ししない。そこが違う」
「うん。それは俺も承知しているが今の社長じゃ頼りないよ」
「だから一緒に代わってもらうんやろね。マル水の事業再編と平行作業やろね」
「しかし、我社をここまで再建した言わば救世主だろう。今や株価は一頃の5倍くらいになってるし、我々の賃金だって越年闘争した頃を思うと夢のような話や。そんな人をそう簡単に追い出せんやろ。少しの遊びくらい許されるんと違うかな」
このころの中国食品の株価は、一時1000円をうかがうところまで来ていたが、全体相場に引きずられて今は700円台で落ち着いている。
「いや、ヒーさんそれは違う。たしかに大きな恩義があるには違いないけど、それとこれとは全く別の問題です。そんな温情を経営に持ち込むからしがらみを背負うことになるんですよ。恩義には金銭で、例えば特別功労金とかで退職金を上増してやればいいじゃないですか」
「ウン。なるほど。それはそうだな」
平田はわかってはいるが、人間味というところでいまいち割り切れなさが残った。一方心の片隅では、それが日本のしがらみだということも認識している。
「人間は引き際が肝心よ。一番いいとこで辞めんといかんと思うよ」
「うん、わかった。出処進退の心得やな。それじゃ、また親会社に談判するための下工作かね」
「そうじゃないよ。俺はその工作はもうしない。今度やると2度目ですから、またかって思われるだけですよ。やる時は真っ向勝負です」
そう言いながら、「1回目はヒーさんたちが使ってしまったからね」と斜に構えた視線を投げかけてはニヤとした笑いを浮かべた。
「それじゃ他の方策があるわけやね」
「ヒーさん、直接何かを働きかけるだけが力じゃないですからね。その状況を作るだけで働く力学もありますよ」
「うーん。にわかには理解できんな。それってなに」
「マル水連合会に加入しているだけでいいんですよ。それだけで引退勧奨の重みが出てくる。そうじゃないかね、ヒーさん」
「うーん。そういうこともあるかもしれんなー」
平田はまた唸った。
平田は坂本の戦略に心底感心した。
「こんなときのために少しずつですがマル水の株を買いよったわけですよ。子会社の労働組合が親会社の株式を買うなんて、うちくらいのもんやろ」
「全くだな。自社株を買うのはよく聞くけど、親会社にはちょっと気が引けるところがある」
「そんなことはないよ。子会社の命運を親会社が握っているわけだから、我々もその存在をしっかりアピールしていかないといいように弄ばれますよ。組合の存在価値は、どんなときも組合員をしっかり守ることでしょう。そのためにはあらゆる合法的手法を駆使するのは当然です」
この辺が坂本の自由人たる真骨頂だ。何者にも囚われない、大らかさと大胆さがある。
「株主ということは、広報室にIR情報を確認できます。業績見通しや政策も確認することができるじゃないですか」
「そんなことやったの」
平田は驚いたように聞き直した。
「しやーしませんよ。株式を持ってるだけでいいんだって。マル水にも、樋口さんにも圧力がかかる。いざというときは株主総会で発言もできる。そんな懐剣もあることがわかるだけでいいんです。遠交近攻って言うでしょうが。それですよ。日本の政治家に教えてやりたいよ。ハッハッハッ」
坂本は、自分の策の至妙を楽しむように大笑いした。
「なるほどそうか。いやー、さすが」
平田はまたもや感心してみせた。
「来年には副議長の座をもらうよ」
「本当かね。できるかね」
「簡単よ。ばかばっかししかおらんのやから。それで戦略的環境整備は完成です。後は何時、どういう形で辞めてくれって一押しするかです」
確かに、坂本ほどの知恵者が関連会社の組合にいるとは思えない。副議長のポストくらいは容易に勝ち取るだろうと推察できる。力だけで考えるならば議長のポストだっておかしくない。後は既存組合の心情的問題だけだ。
マル水の組合の委員長ポストは会社の管理職への登竜門であり、大体2期4年で交代するため老練な経験者はいない。どちらかというと行儀の良いエリートの好青年たちで、海千山千の野武士のような逞しさや老獪さは持ち合わせていない。年格好、経験からしても坂本を凌ぐほどの知恵者は見当たらなかった。とはいえそこは世の中の道理がある。議長の座はやはりマル水の委員長の指定席だ。そこまで望むと逆にはじき出される。
やや間をおいて。
「ヒーさんもそう思うやろ。このままでいいとは思わんでしょうが」
坂本は改めて平田の同意を求めた。
坂本がどんな遠謀深慮をめぐらそうが、それはいつでも会社のためを思ってのことであることが平田にはよくわかっていたから、嫌らしいとか汚いとかの感情は全く起きない。むしろ頼もしく信頼した。
近頃の平田は、本人の意識とは無関係に人事の実務の中心人物と目されるようになっており、その人事部専門役に組合の委員長が会社のトップの退陣について自分の心情を披露するなどということはあり得ないことだが、坂本がここまで腹を割って話すのは2人の間に情報の秘守という信義則が固く守られ、会社のため社員のためという大儀がいつも貫かれているからだ。坂本は昔、平田が組合の副委員長をしていたとき執行委員をしており、会社を建て直すという同志的信頼感はそのときから息づいている。
ただ、坂本の心意気や外堀の整備に手を打ったことは理解できるが、さてどこまで本気で自らの手を染めるのかは不明だった。最後の一押しがどんな形で樋口に退陣を迫るのか。平田は謎の世界に引き込まれるような軽い目眩に陥った。

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