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合わないロジック

更新 2016.06.03(作成 2012.07.13)

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第6章 正気堂々 51. 合わないロジック

説明会で樋口や他の役員が話す設立趣意説明など誰も上の空だった。形式ばった説明会で本音を言う者など一人もいない。まして役員に面と向かって反対など唱えられるはずがない。会社の方針に従えない者は去れと言われるだけだ。鉛のような顔をして貝に徹した。
会社が好きと言われても平田は答えようがなかった。ならばもっと謙虚に会社に尽くすべきではなかったのか。そればかりが原因とは言えないが、反対を唱えようとする希少な意見を押し込め、推進力を強めたことは事実だろう。転籍条件も、もっと有利に引き出せたかもしれない。現に係長・主任制度改定のとき、堀越を悩ませ、樋口に腹を括らせている。
就業規定や労働協約には、本人の意思を確認して行うと但し書きがあるものの、出向も転籍もきちんと記載されている。今回の説明会は、そのための意思確認でもあると担当役員から既に説明してある。しかしそれは冷たい事務的通知のようで、裁判の時の黙秘権の説明のようにどことなく突き放す響きがこもっているのは、彼らに対する潜在意識が反映してのことであろう。
行きたくなければ断わればいいのだが、それは避けようのない運命として受け入れるしかない。
運命は見えざる意思に支配されることがある。誰か見えないが強い意思が他人(ひと)の運命に作用する。いや。そう考えると人の運命なんてものは常に見えざる意思に支配されていると言えなくもない。これまでの平田の運命もそうだが今の彼らもそうだ。しかし人間は、それに流されまいとも必死で踏ん張って生きている。生きるとは、この見えざる運命に負けまいとする必死の抗いだろうか。
運命に支配された彼らは、取り残された気持ちだけが行き場を失い、一人聞き分けなく駄々をこねようとする。
「どうしても転籍しか方法はないんかね。断わったらどうなる」
「経営のことは私にはわかりませんが、会社がこれが一番いいという方法を決断したということでしょう」
平田は会場の左前方の窓際の隅からお座なりな建前論を返した。それしか答えようがなかった。
「どこがいいんや。一つもいいことなんかないやんか」
途端に反発が起きた。
「いや、それは役員会の判断で、私たちの思慮の外でしかありません」
「断わったらどうなるんや」
また誰かが同じ質問を繰り返した。
「どうにもならないでしょう。他の社員と同じようにどこかに配属になるだけじゃないでしょうか」
説明会の間、平田は会場の後方に立ち何くれとなく運営に気を配っていたので、もういい加減皆に帰ってもらって一休みしたかった。それに、制度や規定といった実務的なことならばともかく、方針や主旨については自分が答える立場にはないはずで、踏み込んだ話を聞かれるのは困惑以外の何物でもなかった。しかし一方で、俺にしか聞けないのかなとも思い、聞かれるとつい丁寧に答えてしまう。
そもそも平田が会場にいなければならなくなった訳は、樋口と中野の話がついた後の日本冷機テクニックの買収事務推進部署は経営企画室であったが、移籍は人事部の仕事だろうということになり、説明会の企画運営の一切が回ってきたからである。
平田は人事部としての説明事項の資料の作成や準備をし、もう一人の人事課若手男性社員と今日は会場係として詰めていた。
転籍説明会となると人事のことだけを言えばいいってことにはならない。会社設立の主意や事業計画、将来見通し、組織構成などいっぱいあり、転籍条件や人事制度などはほんの一部に過ぎない。企画の仕事じゃないのかと思いながらも他の役員の役割を割り振り、丸山が依頼したのだ
「首にはならんのかね」
「それは絶対にないと思います」
「しかし、今の仕事はなくなるじゃないか。そしたら居場所はないよ」
「はい。事業譲渡のようなものですから今の仕事はなくなりますが、だけど居場所がないことはありませんよ。どこかに配属になりますよ」
「しかし、仲間はみんないなくなるんだよな」
誰かがぽつりと捨て鉢に呟いた。
それを合図にみんなの腹が固まった。
彼らの論理にも矛盾がある。中国食品が好きで入ってきたのなら中国食品の社員全員が仲間のはずじゃないのか。村社会だけを仲間と頼るならば村と運命を共にするしかあるまい。
「それで、俺たちの処遇はどうするつもりや」
既に処遇方針は打ち出されている。説明会の最中にも重要事項として新田が現在の水準を基準にスライドして処遇すると説明している。彼らが心配なのはその先だ。
「今はそうかもしれないがこれから同じように昇給していくんか。賞与だって同じように出るんかね」
口調はまるで怒っているかのようだ。
それはわからない。自分にはそんなことを決定する権限などない。しかし、多分恐らく本体より多くなることはないだろうということは想像に難くない。彼らもそのことを知って言っている。
「その年々の水準決定は、業績や会社の財務内容を検討して労使の話し合いで決められると思います。そのために組合を組織してもらっています」
「組合だって本体の組合を超えるわけにはいかんやろ。絶対抑えられるに決まっとるやんか」
「そうとばかりは言えないと思います。現に私たちは業績不振のマル水をここ数年上回っています。これをどう考えるかでしょう。資本の力関係が働くといえども、独立するということはそういうことではないでしょうか」
今の平田にはそれだけ言うのがやっとである。自分には運用水準を決定する権限はないのだが、どうするどうすると詰め寄られてあたかも自分が決めているかのような取られ方が辛かった。自分は方針に従って転籍条件を整備しただけである。
「俺たちは中国食品が好きで入社したんや。寂しいよ」
会場はシンと静まり返った。
「この契約違反に対する違約金はないんかのう」
それが転籍料をさしていることは明らかである。転籍するしかないと腹が決まった以上、残る関心事はそこだ。
しかし今回の一連のスキームの中でそのことは論議されなかった。会社の誰もが気付いていながらあえて俎上に上げようとしなかった。堀越も、川岸も、新田も、丸山も、樋口に進言するものは誰もいなかった。ここにも会社の琴線を揺すり続けてきた彼らへの積年の思いがあった。会社は、つまるところ役員たちは力による正面突破を決断した。
「賃金も退職金も福利厚生も現行水準は維持されます。したがって転籍料はないようです」
「しかし、その先よ。同じように昇給し、同じように賞与が出るんですか」
「本体におったとしても数年前のように赤字になることもあれば賞与だって出ないこともあります。将来に約束されたものはなにもありません。独立した以上、自分たちで稼げということじゃないですかね」
「そんなこと言ったって、こんな技術が世間で通用するんかね。これで本当にメシが食えるのかね」
極少数を除いて、「こんな技術が世間で通用し、自立できるほどのものなのか」と半信半疑の社員が多かった。
しかし、それもおかしな論理でロジックに合わない。それならば自立する価値のないものが本体におんぶに抱っこでメシを食っていくのかって理屈になるし、逆にそんな技術を本体から追い出して野垂れ死にさせるのかってことにもなる。もしそうなら、それは切り捨てのようなものだ。
その冷徹さは移籍していく者にはなおさらである。もしこの技術が通用しなかったら自分たちの行く末はどうなるのか。不安でいっぱいである。

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