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パニック

更新 2016.05.26(作成 2010.11.05)

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第5章 苦闘 62. パニック

「平田よ。今日飲みに行くぞ」
豊岡の誘いはいつもこんな具合に一方的で、平田も余程の都合がないかぎり豊岡の誘いは断わらない。2人の遊びはどちらかというと淡白で、どこか行きつけの居酒屋で2、3時間ほど飲んで言いたいことを言い合ったら終わりである。遊ぶときはとことん遊ぶ川岸や委員長の坂本のようにその後どこかに流れるということはない。
「お前は株をやっちょるのか」
「我社(うち)の株をほんの少しと新日鉄を少しだけね。じゃが痛い目に遭ってますよ」
「うちの株はいいやろが」
「新日鉄がね」
「それくらいならいいよ。おれもだいぶやられた」
豊岡は比較的裕福なだけに前からかなり株に入れ込んでいたようで、ご多分に漏れずやはり株式暴落の影響から逃げられなかったようだ。
「それまで儲かっとるからいいやないですか」
「まぁな。俺たちはこれくらいで済んだからいいが、大火傷した者が何人かいるんやで」
「へー、そうなんですか」平田は、あまり他人のことに興味がなく気乗りのしない返事を返した。
「それも役員クラスだそうで、筆頭は経理の新井常務だそうな。営業の河村常務もかなりやられとるそうじゃ。特に、新井常務はひどいらしい。社員の中にもだいぶおるそうやで」
さすがに社内一の情報通だけあってよく知っている。誰からも好かれる人柄からいろいろな情報が集まってくる。ちょっとした社内事情は豊岡に聞けば大体わかる。
銀行の融資姿勢にも問題なしとは言えない。バブルが崩壊する前だ。円高是正のため金利は低く据え置かれ、日銀の金融緩和政策で市場には資金が溢れ銀行の手元資金は潤沢にあった。手元にいくら寝かせても意味がない資金は貸出先を求めて不動産や株式に流れ、バブルを作っていった。
土地や株が値上がりする。それを担保に更に融資する。バブルは雪だるまのようにレバレッジ(てこの働き)を利かせて更に膨張する。サブプライム問題と同じ原理である。
株というのは上がるか下がるかに収斂される。夢の饗宴が終焉するのは一瞬だ。行き過ぎた振り子は必ず逆方向に揺り戻される。不動産関連融資の総量規制導入や金融引き締めなどを契機に90年初頭から急激に株価の崩落が始まった。
これまでチマチマ稼いできたものなど吹き飛んでしまい、多くの投資家がパニックに陥った。

株というのは不思議だ。基本はファンダメンタルズの先読みゲームだろうが、実は心理ゲームの要素が大きい。儲けるときは少しずつだが、損は頂上から底まで一気に負の連続線が発生する。
なぜなら、株が上がるときは本当かなと疑心暗鬼で恐々(こわごわ)と投資する。しかも少しでも高くなると高値掴みを嫌って慎重になる。2、3割も儲ければ大儲けと売り逃げる。だから儲けは企業の実力を確認しながら細切れの稼ぎだ。
相場の格言に「頭と尻尾はくれてやれ」というのがある。最安値で買い、最高値で売り逃げるなんて神様でない限りできっこない。上昇の過程の中で腹身の部分を少しだけかじらせてもらえば御の字、という格言である。
ところが下げるときは少しでも傷を軽くしようと我先に売りを出す。パニック時は、投げが投げを呼んで全銘柄が一斉に暴落し、損が一気に拡大する。買う人がいないから値が付かずストップ安の連続で行き着くところまで行ってしまうのが相場だ。株価のチャートを見ていると投資家の心理が透けて見える。
一般投資家は相場の暴落時にそこから逃れる術がない。買手がいない中、機関投資家が何万株という大量の売りを出すし、その上、下げ相場に便乗して一儲けを企むプロが空売りを載せてくるから、個人がいくら売りを出しても順番が回ってこない。呆然と立ちすくみいつか落ち着くのを見守るしかない。そして相場が底を突いたとき損失の大きさに愕然とし、奈落の底を見るのである。あきらめの中でやっと我を取り戻したとき、もう相場なんてこりごりと自己嫌悪に陥る。しかし、本当はそんなときこそ100年に一度の投資のチャンスなのだが買い向かう気力はもう萎えてしまっている。
どんな上げ相場だろうが下げ相場だろうが、証券会社の営業マンは「買え」とは言うが「売れ」とはけして言わない。彼らも営業だ。残高を増やすことしか頭にない。

話は少し遡る。バブル全盛の87年ごろである。日経平均は1万5千円を超えたあたりから急激にバブルの様相を強め、少し休んでは上値を追い、今や2万円を超えいつかは5万円を超えるのではないかと実(まこと)しやかに囁かれていた。
株式投資は魅力的で刺激的だ。その渦の中に身を置くと毎日が新鮮になる。
社内でも株に手を出している者は結構いた。そのほとんどは営業や製造の仕入れ担当とか、経理の人間で、外部の営業担当者や中央に本社のある大手サプライヤーと接触のある社員だった。それら営業担当者の面白自慢話に触発され「それなら俺も」と始めたものだ。
自分の小遣いの範囲でコツコツとやるぶんには何も問題はない。いい小遣い稼ぎになっただろう。中には新車になった者もいる。
役員クラスでは経理の新井、営業の河村、製造の浮田の3常務が「かなりやっているそうな」と囁かれだした。
「あの人たちは金があるからいいよな」とやっかみの対象にもなった。
彼らだって最初のうちはチマチマとした現物の少取引で飲み代稼ぎ程度だったのだが、バブルでどの株も上昇するから面白くてしょうがなくなった。そのうち低金利政策で相場全体が膨れ上がり、市場はお祭り騒ぎになった。バブル現象になっていることなど見えなくなり、自分には腕があると錯覚し取引に弾みがついてしまった。それ自体がバブルだということには気がつかないで。
88年に入ると新井は、一攫千金を夢見てここ一番の大勝負に出た。信用取引でレバレッジを利かせ、効率よく儲けようという目論見だ。
そのためにはもう少し資金が欲しい。銀行には金があり余っている。
新井は地場大手銀行の融資担当を呼んだ。

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