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三様の気遣い

更新 2016.05.26(作成 2010.06.04)

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第5章 苦闘 47. 三様の気遣い

坂本の行きつけは川岸の好みとよく似ている。もちろん両方が贔屓にしている店も多い。
坂本が平田を誘ったときは「この店いいやろ」と盛んに自慢する。
しかし、店を選ぶセンスほどには飲み方はスマートでなく脱線することも多かったが、懲りずによく飲む。
「ヒーさん、今日はありがとう。皆もよくわかったやろう。これで組合の基本方針は決まったよ。会社がどうするんかわからんから、組合の方向性も決めかねていたんよ。組合ばかりが改革改革と先走ってみても始まらんからね」
「うん。すみません。なかなかハッキリと打ち出すまでにならんから、皆にはわからんわね。今は俺と川岸さんの思いつきのようなもんだからね。ただ一つ言えることは、これまでの担当者もそれなりに考えていたと思うんよ。しかし、臆病になりすぎていたのと違うかな。完璧を期すあまり、制度の枝葉末節に拘りすぎて思い切って打ち出せなかったのよ」
「信念がないから制度に頼って完璧さを追求するようになるんよ」坂本は人事部と深い関わりを持っているからスタッフの実状もよく見抜いている。
「部長も担当者の本気度が伝わらんから腰を据えて取り上げにくい」
「そのとおりやろね。ヒーさんよくわかっちょるね」坂本は他のスタッフを虚仮(こけ)にするときは面白がる。おどけてみせた。
「だから提案までいかんかったんやろね。前任者が残した資料を見ていくとそれなりに研究した形跡が残されていてそれがうかがえるのよ。ただ、制度の正確さばかりに目が行って、会社や社員をどうしたいのかとかなぜそれを導入するのかといった、その人の魂の叫びが俺には聞こえてこないんだな……」
「そんなもん、あるもんか。もしあったらもっと良くなっちょるって」
「だから俺は思い切って提案していこうと思うんよ。大きな矛盾がなければ少々の細かい齟齬があってもいいやんか。そうせんといつまでも変わらんよ」
「うん。いいんじゃない。組合も後押ししますよ。是々非々は是々非々で団交でやればいいんで、つまらん誹謗中傷は押さえて見せますよ」
「ウン。お願いします」
「ヒーさん。これからの組合運動も変えてみせるよ。今までのようなダラダラとした活動はしません。会議の数も必要最小限度に減らします。効率重視でいきます。組合が面子に拘った活動を続けたらそれだけ経費がかかります。ここを徹底的に押さえて将来は組合費を下げようと思います。闘争資金の積み立てなんかもう要らんのですよ。そんな時代じゃないでしょう」
事実、1年後に彼は年間6千万円以上あった一般会計の経費を削減し、それまで「基本給×係数」の青天井だった組合費を上限5千円の頭打ちを実現させている。それどころか、経費削減で浮いた剰余金を数年かけて積み立て、それを元に利息収入で事務所費を賄えるまでの資金を捻出している。ただ、基本給×0.3%の闘争資金用の特別会計の別途積み立て金の停止は、組合員が不安がるとの理由でもう少し後になった。
こうした夢を坂本は饒舌に語り続けた。
そうした話で盛り上がった後は坂本行きつけのスナックやスタンドへ流れていくのがお決まりのコースだ。坂本は、平田と2人で飲んだときは必ず全てを組合の会議費で負担してくれた。まだ交際費の枠を持たない平田への坂本の気遣いだ。普通は逆であるが坂本は平田にだけはそうした。そのことについては平田もそれなりに気を使い、2件目はできるだけ人事で持った。帰り際に「こっちに請求してくれるように」と、そっと名刺を店の女の子に渡し人事部で精算した。
川岸もまた、そんなこともあるだろうと平田と飲みに出たとき、「何かのときには使いんさい。皆に飲ませてやってくれ」と平田名義でボトルをキープしてくれたりした。三者三様の気遣いだ。

係長・主任制度が役員会で承認された後も、平田には一息つく暇などなかった。「提案が承認を得た」は、それで仕事がおしまいではなく、次は実行に向けての準備が必要だ。辞令の発行準備、給与計算スタッフへの伝達、春闘資料への反映、組合への説明資料の作成、運用マニュアルの作成と人事部スタッフへの徹底、電算システムの開発など、考えればきりがなかった。その傍らでパソコンと格闘しながらの職能資格制度の整備が続いた。規定改定の稟議手続きは総務に任せた。
平田が川岸や新田などから重宝がられる理由は、目先のやっつけ仕事を片付けただけでなく、次はどこに手を打たなければならないか、何をすればいいか、仕事が軌道に乗るまでの段取りを最後まで見通す力を持っており、そこまで一生懸命考えるところにあった。それは高瀬にはけしてないもので、川岸が安心して任せられる所以だった。
そんなとき、春の人事評価の結果が流れてきた。そこには平田の評価がAで付いていた。公平公正な人事を目指している平田にとってそれは意外だった。春の評価は過去1年の働きに対するもので、人事に来てまだ半年しか経っていないし自分はまだそれほど目立った貢献をしていないと思っていたからだ。
平田は自分の評価を指で指し示しながらそっと川岸に確認した。
「これでいいんでしょうか。私はまだ人事に来て半年にもなりませんし何もそれらしい働きをしておりませんが」
「いいんだよ。お前を係長にするためや。Aでないと係長にできんやろ。そうせんと仕事がやりにくかろう。といっても来年の異動しかできんのやからな。お前はもう十分最後や」
平田は、内心嬉しい自分がそこにいたが自分たちが進める改革の精神や、川岸の「人事は最後や、貧乏くじや」と言ったことと矛盾しないか気がかりだった。しかし、仕事のためと言われると返す言葉がない。確かに主任と係長では仕事を進める上での信頼度も重みも推進力も違ってくる。これからそれを必要とする試練が待っているのかもしれない。川岸の気持ちを理解すればありがたく感謝するのみだった。
「それに春の評価は能力評価だろ。過去1年を見て判断するのだが見なくてもお前の力くらいわかるさ」そう言って川岸はニッコリ笑った。

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