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一つの区切り

更新 2016.05.19(作成 2008.12.15)

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第4章 道程 23. 一つの区切り

「組合役員の任期はいつまでだ」
「今年が改選です」吉田は嫌な予感がした。
「どうだ。組合三役は交代してくれないか」
「どういうことですか。辞めるとか辞めないとかは、組合の自主運営の問題です」吉田は態度を硬化させた。
「そんなことは百もわかっちょる。だからこうして頼んでいる」
「それは組合への介入になりますよ。会社がそんなこと言ったらいかんでしょう」吉田は、これ以上踏み込ませまいとさらに身構えた。
「それがどうした。君たちも会社の重要人事に介入したじゃないか」
「私たちは会社を建て直すためにやったことです。私利私欲のためではありません」押し切られまいと必死だ。
「俺もそのためさ。私利私欲はこれっぽっちもない。全てが会社のためだ。ひいては社員のためでもある」
「どうして会社のために私たちが引退しなければならないんですか」
「俺には会社を建て直すためのビジョンがある。それにはスピードをもってやらねばならない。時には組合にも泣いてもらわねばならないこともあるだろう。君たちの熱情はわかる。ところが君たちがやっていては組合員が収まらない。西郷南州になってくれということだ」

西郷南州、
昔の人は達筆だ。よく書き物(自らの信念や座右の銘を掛け軸や額縁などにしたいわゆる書)を残している。
西郷隆盛が揮毫(きごう)したものとして「敬天愛人」が有名である。彼の自己修養の指針であり、信仰心に近い人生訓である。
彼は自ら書いた書などに「西郷南州」の雅号を残している。
明治政府は廃藩置県の一連の政策として帯刀、禄の支給という士族の特権を剥奪した。職を失った士族たちは新政府に反発し、「佐賀の乱」をはじめとして「神風連の乱」や「秋月の乱」など、各地で頻発に反乱を起こした。
西南戦争も、これら一連の流れの中で起きたもので、その最大にして日本史最後の内戦である。薩摩は維新の盟主であっただけにそのエネルギーも人一倍大きかった。
その背景には、明治維新を牽引した厚い信頼関係の西郷隆盛と大久保利通の対立があった。徳川幕府を打倒するまではあれほど強い結びつきを見せていた2人だが、新政府の財政、軍事、司法、外交など新しい国家の仕組みを作る段階になると、お互いの思惑に微妙なズレが生じてきた。新政府内での主導権争いや政策の対立など紆余曲折の末、西郷隆盛は大久保と一線を画し鹿児島に帰ってしまった。
こうしたことは現在の企業間の合併や組織統合でもよく見受けられることだ。破壊するときはターゲットが共通しているから団結しやすいが、構築の段階では無限の選択肢の中でお互いの思惑が食い違ってくる。それは合併してみてはじめてわかることである。中国食品もいずれその悲哀を味わうことになるのだが、今は夢想だにしないことだ。
西郷隆盛は西南戦争の直接の切っ掛けとなった「弾薬略奪事件」で、政府側と薩摩藩下級武士たちとの衝突が起きたとき「しまった」と発したという。西郷は、不満が充満した薩摩藩士たちは自分が重石となって抑える。つまり反乱を起こすことは望んでいなかった。にもかかわらず、郷士たちの暴発に配慮を怠った自分の迂闊さを悔いたのだ。そして、西郷はこの戦の首領に担がれている。
大久保との意見の違いはあったが自らが作ってきた新生日本に愛着を持っていた西郷は、不満分子を一まとめに玉砕し新しい日本をきれいにしたかったのではなかろうか。旧体制を作っていた大きな不満勢力を野放図に残していては新政府の足かせになる。自らの命と共に向後の憂いを断ち、後世に託したかったのだろう。最後の戦闘の場となった城山の戦いで「もうこの辺でよかろう」と言った最後の言葉にその覚悟が滲み出ているように思えてならない。
あまりに、純粋すぎた。純粋に生きるということは、その結末はかくも気高くなってしまう。

かって樋口は中国食品に赴任してきたとき、
“自らの政権を磐石なものにし、中国食品で思いっきり自分の経営手腕を試してみたい”と思ったことがあった。
そしてその思いは、
“そのためには、自ら鍛えた生え抜きのブレーンが欲しい。しかし、このまま人材不足の状態が続けばマル水からいつ次の役員が送り込まれてくるかわからない。人材育成は急がれる。それに今は外部環境も大きく変わり経営の近代化やスピード化が求められている。マル水でも経営の重要な部分を任されてきたが、純粋に自分の理想とする経営を実現してみたい”と、ますます強くなっていた。
“それにはマル水からの横槍は邪魔だ。現に本社移転など持ちかけられている。どんな役員が送り込まれてくるかもわからない。組合も役員人事に平気で介入してくる不気味さを持っており、厄介な存在であることに変わりない。そうしたことは極力排除したい。それには、金丸と懇意にある吉田らの存在はやはり鬱陶しい。組合が会社の役員人事を左右させることなんかあってはならないことだ”そう思っていた。
やはり樋口は、組合が役員人事に少なからず手を染めたことに何がしかの含みを持っていた。
吉田は、再三樋口と掛け合ったが樋口の信念は変わらなかった。こういうときは意思の強いほうが勝つ。会社の正常化をある意味で成し遂げた吉田には、次の目標がなかった。それだけに何がなんでもの頑固さを持ち続けられなかった。その分樋口に押し切られた。

「なんで私たちが辞めなきゃならないんですか」
6月24日(金)業務の引けた組合事務所で作田の詰(なじ)るような声が響いた。
吉田は一人考えた末、三役に持ちかけた。自分なりに覚悟を決めてのことだ。
「それは、組合組織への不当介入じゃないですか」
「そのことは、私たち自身が先に役員人事に手を染めていますから反論材料にならんのです。つまり、これはルールとか決まりごとの話じゃないんですよ。人間としての生き様の問題です。つまり私たちの役割使命は終わった。一つの区切りができたということじゃないでしょうか。むしろこれからは経営近代化の邪魔になる」吉田は、樋口の話を自分なりにそう理解した。
「私たちは会社の正常化を目指して立ち上がったと思います。会社は正常化したんですか。利益もやっと黒字化したばかりで正常化といえるんですか」平田は悔しくて仕方なかった。吉田が樋口にしたのと同じ質問を投げかけた。
「そもそも会社がおかしくなったのは、経営の在り方に問題があったからです。つまり経営者そのものの資質に問題があったわけです。私たちはそれを正常化したんです。樋口社長という素晴らしいトップを招聘できたんです。樋口社長が来られて3年。的確な対策を果断に打ってこられたと思います。業績も回復してきました。目的は達成できたと思います」吉田は力強く断言した。
「もう、経営はおかしくならないんですか。利益が安定的に出るまで確認しなくていいんですか」唐突に降ってきた話に、言い方も詰問調になった。
「私たちは経営そのものに口を挟むわけにいきません。あくまでも出てきた結果をチェックするしかないんです。経営権を尊重するとはそういうことではないですか。その経営トップを招いた以上それを信じるしかない。そこに疑いのかけらも残しては経営の手が鈍るということです」
「誰のお陰で社長になれたんですか」豊岡は、憤りを叩きつけるように樋口を詰った。
「それも社長の本意と違うんです。社長はマル水におりたかったんです」
「後藤田専務のためにもいい会社にせないかんと誓ったじゃない」
「そのやり方が私たちと違うということです。時代は変わった。維新は終わったのです。いつまでも私たちが改革改革と言っていては維新が終わらない。会社も組合も新しいセンス、考え方で新時代を築くときがやってきたということです。私たちが古い過去を引きずっていては改革が遅れるんです。ここは一旦引きましょう。おかしくなったらまたやればいい。会社はそれができないけど、組合はできる。組合の強みです」
みんな唇を噛みしめた。何かを成し遂げたという達成感よりも、退任に追いやられる挫折感のほうが胸を突き上げた。
“もし成功したといえるなら、せめて1年でも2年でも勝利の果実を味わってもいいではないか。苦労の部分だけを背負っていく人生なんて理不尽すぎる”無念の涙がこぼれた。

昭和63年10月の組合大会で、吉田ら三役は辞任した。
新しく委員長になったのは坂本一馬だ。吉田政権の中で、広報担当として速報などを担当していたことは前に触れた。坂本は業務課長の河原に刺激を受け、誰も適わぬほど勉強していた。自らのアイデンティティもしっかり確立しており、ポリシーも哲学も持っていた。進取の精神にも富んでいて経営近代化の時代には適任と思われた。34才と若いが自らの政権を立ち上げるだけの気概も十分備えていた。
しかも、旧三役の無念さに理解を示しつつもそんな感傷にはキッパリと見切りをつけ、新しい時の流れへ大きく舵を切る冷徹な理知を持っていた。
当然ながら、一般組合員からは「何故」という疑問が上がったが、「一つの区切りです」と多くを語ることなく交代していった。

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