ナビゲートのロゴ
ナビゲート通信は主な更新情報をお届けするメールマガジンです。ご登録はこちらから。

下記はページ内を移動するためのリンクです。

現在位置

 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.7-8

それが違う

更新 2013.12.05(作成 2013.12.05)

| ←BACK | INDEX | NEXT→ |

第7章 新生 8.それが違う

向かい合うと2人は、無言のまましばらく見つめ合った。10年の星霜が去来し、無量の感慨が胸を埋めた。
「お前さんの望むとおりになったよ」
樋口は観念したような口ぶりで心情を漏らした。
「お疲れ様でした。しかし、私はなにもしていませんよ」
「しなくてもお前さんの考えてることくらいわかるさ。連合会に加入したり、マル水の株を買い増ししたり、それがなんのためかくらい読めるさ」
坂本とマル水が手を組んで自分を追い落としに掛かっているようなトリックに思えた。
これまで地位も名誉も一身に受け、鮮やかに権力の全てを掌握してきた樋口であったが、いざそれらを手放すとなると理屈抜きに心のどこかに隙間風が吹いた。
すでに引退を観念している身であったが、坂本の顔を見ると誰に対するものでもないが恨み節の1つも言いたくなった。
樋口は“最後のわがままだ”と自分に開き直って先を続けた。坂本はそれを受け止めてくれるという甘えにも似た信頼もある。
「どちらも金のかかることだ。それでもなお、やる意味は一つしかない」
一言一言ゆっくりと十分間を置いた語り口調は、それだけに相手の胸深くねじ込む凄みがあった。
ヘビースモーカーの樋口がまだ1本も火を着けずにいる。指を組んだ肘を膝に乗せ、伏し目勝ちにテーブルに視線を置いたり、額に深い皺を作って坂本をのぞくように見上げたりしている。
「なるほど。ですが私は、やはりそれがいいと信じています」
坂本も同じように指を組んで膝の上に置いている。
「お前さんは、それほど二頭立てが嫌いか」
「そんなレベルの問題じゃありません。二頭立てが好きとか嫌いじゃなくて、わが社ではダメと申し上げておるのです。いいですか、会長。よーく見てください。わが社はマル水のような優秀な人材は1人もいないんですよ」
坂本の語り口に力がこもってきた。
「うん。それがどうした。だから俺と大西さんとでやってきた」
「だからそれが違うと言っているのです」
「なぜだ。何が違う」
「さあ、そこです。会長は退かれたあと、大西さんに後任を託すつもりだったんですか」
「うん。それはわからんさ」
樋口は凡庸な大西を社長に据えた後ろめたさを隠して、自分でも本音では「否」を繕った。
「何を仰ってるんですか。それでうまくいくと思いますか。いくわけがない」
「マル水から新社長が来たからそれでいいじゃないか」
樋口は背を起してソファーにもたれながら、突き放すような言い方をした。
「そうなんです。そうなりますよね。大西さんじゃ務まらないからマル水から新社長が来る」
「それが嫌なのか」
「いや、そうじゃなくて、ただそんなことも読めない役員が大半だということが言いたいんです。今何が起きていますか」
「……」
「そんな役員連中が、会長がお辞めになると大西さんがあとを引き継ぐとでも思っているのか、大西さんにもご機嫌を伺っておこうとやっているんですよ」
「いいじゃないか」
「いいわけありませんよ。中心が2つあるから社内が振れる。それが二頭立ての弊害なんです。だからダメだって言ってるんです。マル水と違うのはここです。わが社はマル水とは伝統も文化も違うんです。マル水では社長が全てを任される。だから人心も一点に集中される。ところが、わが社にはそんな文化がないから会長を担ごうとするような第2勢力が出てくるのです」
「それで俺を追い出そうとしているのか」
「まあ、そうお取りになっても結構ですが、私が望んでいるとおりになったという言い方は語弊があります」
「ほかになにがある」
樋口も、坂本が樋口を追い出すために何かアクションを起こしたのではなく、あくまでもマル水主導の戦略人事であることは先刻承知している。
だが、自分を追い出そうとするその心根が憎くてあえて論戦を張っている。
「会長はわが社に来られて何をなされましたか。歪んだものをまっすぐに直し、してはならんことを戻し、やるべきことに力を注ぎ、会社を立派に建て直してこられた。これ以上何をしたいのですか。それほど権力を手放すのが惜しいですか」
坂本が組合執行部に加入したのは平田と同時の1984年だからかれこれ13年になる。その間ズーッと専従でやってきた。4年後、平田や吉田前委員長らが降りる時、交代するように委員長に就任して今年で9年目である。
これほど長く委員長の座に座り続けながら、それでいて人事の停滞感や腐臭が起きないのは、清貧を旨とし、驕りや横暴さを極力抑制した坂本の生き様によるものであろう。
もともと勉強熱心だったが、専従になってからは会社のトップと堂々と渡り合うために、もっぱら経営や経済、政治などをガムシャラに吸収した。セミナーなどもよく出かけ、平田も何度も誘われている。
今やその知見の確かさは社内でも屈指であり、経営に対する牽制機能として組合の役割を見事に体現している。
彼の存在価値はそれだけでは留まらず、組合に研究や分析の甘さを指摘されたら拙いと政策立案者たちがこれまで以上に真剣にテーマを研究するようになった。思わぬ効能を生んでいる。
最近ではその見識の高さを買われ、広島県の公益企業の理事にも就任している。
一時、そろそろ引退してはどうかという話が持ち上がったが、「私の後釜に相応しい者がおりますか。今私が引退したら会社に物言う者がいなくなります。そうなると会社がおかしくなります。私は引退する気はありません」とキッパリと断わった。
それ以来、彼は自分を律する姿勢を一段と厳しくし、そんな容喙を完全にブロックしている。
そんな覚悟が樋口に対しても、おかしいものはおかしいと堂々と言わしめているのだ。
「二頭立て政治は、効率が悪いし人心を二分する混乱の元だ」とその修正を求めているだけなのだ。
樋口は、おかしいものを当たり前に修正することで会社を建て直してきた。今、その硬骨な良識に揺らぎが生じている。

「正気堂々」についてご意見をお聞かせください

▲このページの先頭へ

お問い合わせ・ご連絡先
Copyright © 1999 - Navigate, Inc. All Rights Reserved.