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素人は怖いね

更新 2014.10.15(作成 2014.10.15)

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第7章 新生 39.素人は怖いね

川岸は、社長とはいえ伴を連れ歩くほど会社に余裕はない。全てに自己完結しなければならない。中国食品時代は、「おい」と一言かければ誰かが飛んできて動いてくれた。
地位には名誉や収入、権力など人を虜にする魅力があるが、だが肩書はそれだけで価値があるのではない。どこの、どんな、が伴って初めてその価値が決まる。今は社長という肩書になり収入もそこそこだが、昔の常務時代の権力はない。組織がないのだ。
川岸は、そんな不便さで自分の運命が恨めしく、昨年までの常務時代を懐かしむ気持ちが埋火のようにうずくこともあったが、今はそんなことを言っている場合ではない。何とか銀嶺を軌道に乗せなければ自分の居場所がない。川岸は真剣だった。
中国自動車道は下関から大阪の吹田まで、まさに中国山地の背骨を貫く自動車専用道で軍事的戦略道路とも噂されている。
かたや山陽自動車道は、中国自動車から山口で分かれて防府、徳山、広島と瀬戸内海沿いに大阪の西宮まで伸び、ここで再び中国道と接続し1本になる。
この2つの道路は姫路を過ぎたあたりから次第にその距離を狭め西宮で連結するのだが、その少し手前から作るトライアングルの上辺辺りが三木市吉川町に当たる。明石市の北隣りが三木市でその北寄りが吉川町だ。
この辺りは秀吉の命を受け、黒田官兵衛が竹中半兵衛らと共に三木城攻略で活躍したところだ。
川岸は三木東インターで高速を下りて昼食を取り、それから吉川町まで北へ30分ほど走った。
六甲おろしの空気はさすがに冷たかった。空気に命があるとしたらここの空気には自らを律する凛とした厳しさがある。中国山地を超えてきた冬の風はここに住む人をも鍛えるようだ。
三木市吉川町は三方を山に囲まれた意外と狭い地域で、稲が刈り取られた後の棚田が、山裾に向け緩やかに並んでいる。
米どころと聞いて、新潟平野のような広大な農地が延々と広がる大田園地帯をイメージしていたが案外と質素で、これで酒米の需要を賄えているのかと不思議なくらいだ。
神戸市や明石市のベッドタウンとしての宅地開発が急だったようで、大きな団地がそこまで迫ってきている。ゴルフ場もやたらと多い。ここに到着するまでの30分の間に、ゴルフ場の案内看板を片手に余るほど見た。見渡せば、あちこちに山を切り開いている。
一方で、米どころとしての役割、環境は死守しなければならない。町をとりなすいろいろな要素がせめぎ合っている構図がうかがい知れた。
一転農地に目を転じると、収穫した後の田圃が畦草もきれいに刈り取られ静かに広がっている。
普通この時期の田圃は稲の切り株を残したまま春を待つものだが、ここでは既に天地返しの耕起がなされており、春を待っていた。
こうすることで土壌の中に空気を含ませ、偏った養分を均し、寒気を入れることで害虫や病気を防ぎ、翌年の美味しい米作りに備えるのだ。
川岸は取り敢えず、そこらで一番大きな構えの農家に当たりを付けてみた。どれくらいあるのかわからないが広い敷地を白漆喰の塀が囲み、塀に乗った黒い瓦の上から手入れの行き届いた庭木がいい姿を見せている。
母屋は入母屋造りの二階建てで同じく銀色に輝く黒瓦に覆われており、棟の冠瓦の両端には鯱が乗り、4方の下がり棟には鬼瓦が睨みを利かせている。壁は全面焼杉の板で覆われており、破風には鳳凰とおぼしき鳥の模様が彫られていた。軒の下から一抱えも二抱えもありそうな大きな梁が見え、軒の懐の深さに重厚さを感じる。
敷地の北側には同じく白壁の蔵がスッと建ち、庭の東サイドに大きな納屋があった。
見るからに昔からの豪農家らしい構えを見せている。
それにしても農家というのはどうしてこんなにもみんな立派な構えをしているのだろう。よほどいい収入に繋がるのだろうか。そりゃ、貧しい農家もあるにはあるが、しかしそれは山間部の狭隘な農地しかないところだ。平野部の1町歩以上の営農家は大体裕福だ。
自分の知り合いの農家もトラクターや田植え機、稲刈機、脱穀機、乾燥機と1台数十万円から数百万円もする機械を大きな納屋に収めている。
これほどの設備投資をしても採算がとれるのか、不思議でならない。
大体、1反の田圃から獲れる米の量は良くて15、6俵だ。1俵1万円としても15万円。1町歩作っても150万円にしかならないではないか。なにか余程大きなからくりがありそうだ。川岸は常々そう思った。
ただ、米はそうだが都会の近郊農業で、季節を先取りする形でうまく野菜を回転させればかなりのうま味があるとは聞いたことがある。
「そりゃあ、外の会社勤めの収入を入れるのよ。農業は赤字よ」 ほとんどの農家はそう口をそろえて言うが、それはサラリーマンを欺く方便ではないのか。私たちサラリーマンは、これほどの設備投資をこなしながらこんな大豪邸はとても持てない。不思議だ。

川岸は追手の前で車を止め歩いて中に入って行った。他人の家に車で乗り付けるのは失礼だと思ったからだ。飛び込み営業はこれまでにも随分経験しているが、今日は勝手が違った。今日は売るのではなく買うほうだ。胸の高鳴りを押さえられなかった。会社の命運が掛かっている交渉だ、性根を据えてかからねば。自分に言い聞かせた。
中は門から納屋まで、4tトラックが優につけられる広さがあり、管理が行き届いていて草1つ生えていなかった。
ちょうど昼休みなのか、主人らしき人が縁側に腰をおろしていた。
「こんにちは。失礼します」
川岸はまじめ顔に少し笑みを浮かべてあいさつをした。
年は60前後だろうか、日焼けしているので少し老けて見えるその男性は、少し訝しげな顔を見せながら立ち上がった。
「突然ですみません。私はこういう者ですがお米のことについて少しお話をさせていただきたいと思いまして、お邪魔しました」
“どんなことだろう”と思いながら、その主人は川岸が差し出した名刺に黙って目を落とし川岸の出方を待った。
「この辺は空気と水がおいしそうですね」
「まあ、そうですね。水と空気は米の命ですからね。町を挙げて環境維持に力を入れています」
「そのようですね。田圃もスッキリしていて、農閑期でありながら荒れた感じが少しもありません。さぞおいしいお米が取れるんでしょうね」
「米を買いに来られたのですか」
「はい。まあそうなんですが」
川岸はここで間を空けた。あまり性急に事を急いでも警戒されそうだ。
相手も「フーン、そうなの」という顔をしている。食用の自主流通米なら少しは余裕があるからだ。
「実は山田錦を欲しいと思いまして伺ったわけなんですが」
「山田錦ですか」
その農家は驚いたように反応した。
「山田錦を何とされますか」
「はい、もちろんお酒を造ります」
「その仕入れですか」
「はい」
その農家は「あーそう」と唸ったきり、呆れたような顔で黙ってしまった。
川岸は不安な気持ちが、次第に胸の内を占領していくのがはっきりとわかった。
「素人は怖いね。そんなものあるわけがないじゃないですか」
「エッ」
川岸は言葉を呑んだ。
名刺にはハッキリと「銀嶺酒造株式会社、代表取締役社長」と書いてあるのに、素人呼ばわりされたのだ。
確かに自分は素人には違いないが、名刺の肩書に一応の敬意を払ってもらってもよさそうではないか。
それでもこの農家さんは、川岸が山田錦を買い求めに来たことで素人と見抜いたのだ。

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