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俺の退職金まで

更新 2014.03.05(作成 2014.03.05)

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第7章 新生 17.俺の退職金まで

遂に新田が業を煮やした。本来ならとっくにプロジェクトが走り出していなければならない時期なのに、関係会社の制度も退職金も一向に動き出す気配がない。
「おい。ちょっと遊びに来いや」
新田の平田への呼び出しはいつもこうだ。まるで友達でも呼び出すような気さくな響きをもっている。しかし、何か用があるから呼び出すわけで遊びだけで終わったことなど一度もない。
平田はやっと呼び出しがかかったかという微かな希望と、どこまで話していいものかという迷いをない交ぜにした複雑な心もちで4階のボタンを押した。
平田は必死の気持ちだった。置かれた立場、体の変調を考えたとき、現状を打開する唯一の救いだからだ。
「チョット来いに油断すな」言い古された慣用句だが、平田は誰かに呼び出されるたびにこの言葉が自然に想起され、どんな時も全く無防備に顔を出すようなことはしなかった。体は重いがしみついた習性が平田を突き動かす。
「今何か起きているか。何か問題はあるか。仕事の進捗具合は。呼び出した人が今関心を持っていることは何か」など、一応の心の準備をして訪ねるようにしている。数字に自信がない場合は、一度確認したり資料を携えていく。
“今日はメモ帳だけでいいだろう”
新田は専務になったが、部屋はそのままだし調度品も変わっていない。あまりいじらないほうが使い勝手がいいからだろう。それに去って行った先輩たちへの配慮もあるようだ。自分だけが豪勢を働くと必ずやっかみが起きるものだ。その辺りへの気配りは怠りない。
ドアは閉まっていた。ノックすると間髪を入れずに「おう」と帰ってきた。その返事に平田を待っていた様子が伺えた。
平田がドアを開けて中に入ると、新田は椅子から立ち上がって会議用のテーブルを手で指示した。
平田が窓を背にして座ると、新田は対面に座った。新田の後ろには大きな執務机がスッキリと片付いており、黒皮の肘掛け椅子が主を失った弾みで軽く回転し横を向いて止まっている。机の上が片付いているということは何か思案をしていた証しだ。
「どうした。なかなかエンジンがかからないじゃないか」
「はぁ」暗い心を隠して必死で平静を繕う。
平田は今の心境そのままにどう話せばいいか逡巡しながら言葉を濁した。
「新体制になってもう2カ月以上過ぎてるぜ。早く動かんと間に合わんのじゃないか」
「それはそうなんですがチョッとストップを掛けられていまして、動けないんですよ」平田は言いにくそうに口ごもりながら言い訳した。
「なんのストップや。お前が動かんと前に進まんやろ」
「はぁ。私もわからないんですが、私は動くなってことになっているんです」今にも泣きたいくらいの気持ちである。
「椿さんとうまくいかんのか」
「そうですね。部長のほうになにかこだわりがあるようでして、私も本当にそれでいいのかなとは思いますが、もう知らんという気になっています」
平田は少し口元をゆがめて言い返した。
ここまで話してきて、もう隠してもしょうがないやという気になってきた。
「それじゃ、他のことはどうしとるんかね」
「はぁ、部長と担当部署の課長とで決めているようです」
「しかし、いろいろクレームも上がってきているぜ」
「専務のところにも来ていますか」
「うん。この前委員長がこのままでいいのかって懸念を表明してきた」
「そうなんですよ。今まで散々言ってきたことは何だったのか、結局元の黙阿弥かって叱られるのは私なんです」平田は情けなかった。
「ウーン。困ったのう。どうする気かのう」
新田も憂慮の色を浮かべてはいるが、できれば容喙はしたくないようだ。
「それでお前はいつでも動けるんやな」
「もちろんです。これまでの仕事はこのためにやってきたようなものですから」
ここは踏ん張りどころだと思った平田は、萎えそうな心を叱咤し渾身の力を振り絞って強く言い返した。
「うん、わかった。椿さんとは俺が話をするから、お前は準備だけはしておくように」
平田に一縷の望みが開けた。しかし、本当に2人の話がうまくいくものか保証されたわけではない。椿の手足で使われるだけの形ならもっと悪い。椿の考えが、自分がこれまでやってきた路線とは真逆にあることははっきりしている。鬱陶しい日々は続いた。

近頃の平田は、昼食を外でとることが多くなった。それも人事部の部屋からできるだけ遠くの店を探した。人事部の部屋には少しでも居たくなかった。若い者と一緒になることもあるが大半は1人だ。
ある日の昼食の帰りのことだった。何かの打ち合わせに来て、今帰るところらしい1人の営業所所長と玄関前ですれ違った。あまり親しい所長ではなかったが顔は見知っており、平田は軽く会釈した。
すれ違い様その所長は思いがけない言葉を投げつけてきた。
「今度は俺の退職金まで減らすんか。家に火を着けたろか」
平田はハッとして振り向いたが、その時はすでに歩き出して去って行った。
不意を突かれた平田は、何をどう対処したらいいのかわからないまま茫然と見送った。姿が見えなくなると涙が出てきた。そこまで言われなきゃいかんのかと、自分が情けなかった。
恐らく今回の制度移行で何らかの不本意があったのだろう。それの逆恨みだ。
しかし、「それは違う。私は制度を整備しただけだ。その制度に乗るための準備をしてこなかったのはあなただし、日ごろの努力を怠ったのはあなたじゃないか。それにあなたを棚卸したのは私ではなく、役員だ。私に人事権はない」後ろ姿にそう叫びたかった。

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