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壊れた心

更新 2014.02.25(作成 2014.02.25)

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第7章 新生 16.壊れた心

平田の鬱々とした日は続き、胸の中の不安と恐怖は日に日に大きくなっていった。関係会社の人事制度も退職金も立ち往生したままである。
そして、遂に平田の心が壊れた。人の精神なんて脆いものだ。たった2、3カ月の疎外感でへしゃげてしまう。頭はすっかり白いものが目立ち始め、時に虚ろに黙り込み、体は怠く何事にもやる気が起きなかった。平田は完全に輝きを失った。
ある朝、出勤するときのことだ。平田は、いつものように車庫から車を出し無意識に団地の坂道を降りていった。坂道を降りきったTの字の信号を左に曲がれば会社の方角だが、どうしてもハンドルが切れない。意識の中では左に切らなければと命ずるのだが、心がそれを許さない。激しい葛藤で立ち尽くしているとき、後ろの車のクラクションに蹴飛ばされるようにアクセルが踏み込まれ、車は右に曲がっていた。自分の意識と無関係に右に動いてしまった。なぜだか自分でもコントロールが利かない。
車はそのまま走り続け、遂に中国山地を超えて山陰の浜田まで来てしまった。車で2時間の距離だ。ここは何度も釣りに来ているところであり、潮の香が懐かしかった。ここには誰も知った人がいないという安心感と、久し振りに見る海は心を浮き立たせてくれて、嬉しくなった。今の平田にはまさに別天地だった。
結局、あちこちと昔慣れ親しんだ釣り場を散策し、人の釣りを眺め、日がな1日を過ごした。会社には連絡を入れる気にもならなかった。海という天国に現実を持ち込みたくないという意識が、連絡する責務すら無視させた。
だが、それは正解だった。翌日会社に行っても誰も咎める者はいなかった。同時に心配した者もいないということかもしれなかったが、平田には気が楽だった。
浜田で過ごした1日は、平田には至極の幸せだった。忘れられない1日となり、その後も左に曲がらなければという意識と、それをさせまいとする心とのバトルに負けた日は浜田に行く日が何度か起きた。一度逃げ道を覚えると心は易きに流れる。
人の心は、仕事がつらいとか、忙しいから病むのではない。どんなに厳しい状況でも理解者さえあれば頑張れる。人が病むのは疎外感からである。あるいは上司の無言の圧力であり、恐怖心からである。
平田の心は深く病んでいた。

ある日、事業所から平田に電話が入った。それは秋に実施される優秀社員表彰制度の推薦要綱についてだった。平田がどんなに病んでいるか、まだ誰も知る者はいない。
優秀社員表彰制度とは、ここ一両年の活躍が顕著で優秀な業績を上げた者上位20名を海外旅行に招待する制度で、社員には大好評で大きなモチベーションにつながっていた。表彰制度は、樋口が来る前からあるにはあったのだが形だけの粗末な制度だった。それを樋口が、「同じやるなら社員がありがたいと思うようなものにしないと効果がない」と拡充させたものだ。
平田も行かせてもらったことがある。ホテルも食事も一流の、それは素晴らしい旅だった。生涯の思い出である。
「グローバルな視野を身に着けることと、最先端の市場で何が起きているかを見てきてほしい。それには自由主義経済の最先進国であるアメリカの市場を見てくるのが一番である」と、アメリカの主要都市を2週間かけて見学してくるのである。帰りにはハワイに寄ってノンビリしてくる。それは最高の幸せだった。
「こんな基準でいいんですか。平田さんはちゃんと見てるんですか。これじゃ昔に逆戻りじゃないですか」
電話の主は随分怒っている。
この制度にノミネートされるには事業所からの推薦がいる。人事が案内したその推薦要綱に、「勤続年数何年以上の優秀な社員」という一文があった。
次は俺が選ばれたいと頑張ってきた若手社員にはチャンスが摘まれる。
人事制度の改定で「これからは全ての基準が実力、成果に変わります」と宣言しており、この基準では年功処遇に後戻りである。むしろこれから組織に貢献してくれるグローバルな人材を育てる視点に立てば資格基準になるべきだろう。新人事制度移行年度にいきなりのつまずきだ。
そもそも、なんでこんな齟齬が起きたのか。それはこの表彰制度設立の生い立ちの中に、「長いこと勤めてくれて会社によく貢献してくれた」という趣旨が含まれていた。会社創立10年、15年の短い会社では、その意義は大きい。しかし、会社の歴史も深くなり、組織も大きくなり、経済環境もグローバル化した現在において勤続の意義は薄くなった。これからは実力であり、成果だ。その代弁となるのが資格ではないか。
そうなると選に漏れた古参社員に不満がくすぶるのだが、それに揺り戻されてはならない。ここが制度担当者の踏ん張り処だ。
新人事制度も発足したばかりであり、よくよく目を凝らしていなければ理念の徹底の部分でブレが起きる。
古い考えに慣れ親しんできた社員はこれで何も疑問が湧かない。しかし、それでは、「何だかんだ言ってみても、やっぱり昔のとおりじゃないか。何も変わらんさ」と社員が変わらない。社員が変わらなくてはイノベーションは起きない。
制度担当者は、どんなに叩かれようが罵声を浴びせられようが、歯を食いしばってここを踏ん張るしかないのである。
「俺は知らんよ。印鑑が押してあるんやろ。その人に言うてくれーや」
平田は投げやりに言い返した。
「それはいかんでしょう。制度担当次長が知らんような運用をしたらいかんでしょう」
「まあ、いろいろ考えもあるんやろ」
力なく答えた。
その後も、そんな押し問答をする場面が何度か起きた。
しかし、全人格を否定された今の平田にはそれを自ら打破する気力が湧き上がらなかった。
「まあ、いろいろあるんじゃない」と、無気力に弱々しく返すのが精いっぱいだった。

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