ナビゲートのロゴ
ナビゲート通信は主な更新情報をお届けするメールマガジンです。ご登録はこちらから。

下記はページ内を移動するためのリンクです。

現在位置

 ホーム > 正気堂々 > 目次INDEX > No.5-57

旧恩

更新 2016.05.26(作成 2010.09.15)

| ←BACK | INDEX | NEXT→ |

第5章 苦闘 57. 旧恩

平田は、相変わらず職能資格制度の構築に追われる中、大好きな初夏の6月をすっきりと晴れない気持ちを抱いたまま迎えていた。
こんなときは誰かと会いたい。社内の利害やしがらみを超えて無心で話せる相手が欲しかった。
“後藤田社長がおられたらなー”そんな願いをぼんやり思い浮べたとき、
「鮎がある」平田はひらめいた。これなら会いに行く立派な口実になる。ちょうど解禁したばかりで、自分もしばらくご無沙汰していたから腕がなっていたところだ。仕事は気になってしょうがないが、“後藤田社長が待っている。喜ぶ顔が見たい”平田はそう思うと“半日だけ”と自分に言い聞かせて川に入った。
案の定、後藤田は喜んでくれた。
「イヤー。よく来てくれた」後藤田は手を取らんばかりに中に招き入れた。
「お元気そうでなによりです。鮎が解禁になりましたので持ってきました」平田は、今から伺う旨を一応電話で断わっていたが、突然の訪問の言い訳めいたあいさつを返した。
「いやいや、ありがとう。嬉しいね。何よりのご馳走だよ」
「あらあら。立派な鮎ですこと。いつもすみませんね。○○たちにも取りに来らせましょうかね」横から奥さんが鮎を受け取りながら、近くの息子さん夫婦のことを後藤田の顔に問いかけた。
「あのう、よかったら私がしごうしましょうか」
「いえ、大丈夫ですよ。いつも頂くからすっかり板につきましたのよ」
平田は、塩氷水に漬かった鮎を渡しながら塩焼きの下ごしらえをしてやろうかと尋ねたがあっさりと断られた。クーラーの中でガラガラと氷が揺れた。
「そんなことより、さぁどうぞお上がりください」
奥さんはリビングのソファーに案内した。
後藤田は思ったより明るかった。
「いかがお過ごしですか」
「うん。あいさつ状を出したり、家内と小旅行や食事に出かけたり、晴耕雨読のようなことばかりさ。この前は△△さんたちとゴルフに行ってきた」後藤田は嬉しそうに近況を話してくれた。
「はい。もう何も心配事はないでしょうからゆっくり楽しんでください」
「うん、そう思うようにしているんだがね、辞めるとやり残したことばかりが思い出される。いいことはやって当たり前。あれもしたかった、これもしたかった。そんなことばかり思います……。しがらみや損得を離れて初めて感じることですよ。私もやっと悟れたかな」と大きく笑った。
「辞めるときにはさばさばと吹っ切れていると思っていたが、いざ辞めてみると考えるのは会社にいたときのことばかりなんだよ。だから君たちも思いっきりやったほうがいい」
「はい……」返事のしようもないが、平田もにっこりと笑ってみせた。
「今は、君たちがたまに思い出してくれて、時々遊びに来てくれたら幸せだな」
人が何かを残すということは、人の心の中に生きるということだろう。
平田は久しぶりに屈託のない後藤田の笑顔に会い、数日前からそこはかとなく続いていた胸のつかえを、スッキリと忘れることができた。

そんな平田の制度構築は苦難の連続である。なんといってもパソコン技能から習得しなくてはならない。その上で前任者が残した膨大なフロッピーを読み込み、意味を理解し完成へと導かなければならないのだ。そのためには職能資格制度そのものも学ばなくてはならない。更には、春闘や賞与の原資計算、係長・主任制度といった定型非定型の課題が下りてくる。
みんなが帰った後、1人残って深夜までパソコンに取り組み、土日も出社してフロッピーの読み込みを続けた結果、このころになるとワードや表計算などは完全にマスターし、自分でプログラムも組めるようになっていた。社内の中高年齢層がなかなか電算システムやパソコンに馴染めないでいる中にあって、平田は抜群の習熟度になっていた。その陰にはパソコンやIT機器についての知識や馴染み方、仕事への取り込み方などを、なにくれとなく教授してくれた荻野たちの存在があった。
人事制度の習得は、積極的にセミナーへ参加し、自らの知識の習得を速めた。月に1回、多いときは2回くらいのペースで参加したが、川岸は何も言わずに認めてくれた。そこには、いつか必ず平田が何かを打ち出してくれるであろうという信頼と、自らに言い聞かせるようなとてつもない忍耐があったに違いない。それがわかるだけに平田も必死だった。
春闘時期は、制度を活用した賃金改定の実務研修が多く開催されていたが、春闘が終わったこのころは制度のメンテナンスや制度構築のセミナーが活発に開催されていた。
平田は、楠田丘氏のセミナーを中心に必死で参加した。評価のあり方、資格や賃金の設計の仕方、昇給賞与の運用の仕方など、楠田氏独特の制度感があり、それはそれで平田にも理解できた。しかし、平田の「正しい人事のあり方」というテーマに直接応える講義にはついぞ出会わなかった。
こうしたセミナーは、狭義の制度のことばかりでなにか物足りない。それでも平田がこうしたセミナーに多数参加したのは、その知識を吸収することよりも常に自分の課題と照らし合わせた聴講をすることで、課題を解決する人事制度のあり方や仕組みに対する自らの考えを鍛えていくことが出来たからだ。
その見解に照らすと、職能資格制度は「正しい人事のあり方」を追求していくには矛盾や疑問が残る。しかし、制度はすでに賃金を移行運用し走り出しており、どうしても一旦は決着させなければならなかった。

「正気堂々」についてご意見をお聞かせください

▲このページの先頭へ

お問い合わせ・ご連絡先
Copyright © 1999 - Navigate, Inc. All Rights Reserved.