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もう一つの夢

更新 2010.08.25(作成 2010.08.25)

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第5章 苦闘 55. もう一つの夢

人生は出会いというが、出会いがあるから別れがある。
新しい経営陣により会社が攻めの経営に打ち出そうとした矢先、平田に新たなショックが起きた。これまで何かと平田を支えてくれた河原が、夏の賞与をもらったら会社を辞めるというのだ。
惜別の思いで河原を飲みに誘った平田は、知らず強い問い詰め口調になっていた。
「どうして辞めるんですか。やっと会社がいい方に動き始めたというのに」
「夢だよ。夢」めったに笑わない河原がニヤリと薄く笑った。
「俺は今までずいぶんと会社のことを思って働いてきた。会社に育ててもらったのだからサラリーマンとしては当然だけどな」
平田はうなずきながら次の言葉を待った。
「だがな、何か虚しいのよ。人が何かを成し遂げるというのは、会社に何かを作ったり残したりそれもいい。やりがいも生きがいも手応えも、それなりにあるだろう。しかし、会社を辞めたらどうなる。会社がつぶれたらどうなる。仕事は次々に塗り替えられていつか消えていく運命じゃないか」河原は志とは違う何かを語ろうとしているのが平田にもわかった。
「しかし、会社を通じて何かを成したり、社会に貢献することだって可能でしょう」
「トップはそういう気分で経営していけるかもしれんが、そのほかの者はそれに参加、あるいは一翼を担うというくらいのことさ。それにトップにその気がなかったら何もできん。食品会社のわが社は、ダムを造ったり、橋を架けたり、そういうやりがいはない。俺は起業の理念を実感しながら生きたいんだ。サラリーマンとしてのやりがいじゃなくて、男として生涯を通じて何かを成したいと思うんよ。自分に言い聞かせたり、言い訳するのはもういい」河原はなにか思い詰めた顔をした。
「それは会社じゃできないんですか」
「お前は何のために生きている。会社のために生きているのか……」
そう言った河原は平田に考えさせる間を空けた。
「俺は会社のためになんぞ生きているんじゃない。人はやっぱり自分の夢のために生きているだろ。その夢が会社の中にはどう探してもないのよ。わが社では画期的な商品を開発するとか、得られた利益で社会に還元するとかそんな貢献の仕方しかない。それがお前の夢や生き甲斐になりうるのか。会社をどうこうしたいとかこんな仕事をしたいとか、確かに会社の中での夢ではあるが生涯の夢になりうるか。会社を辞めたときそれが生きがいや自分の存在意義になりうるか。竜馬だって土佐藩を飛び出したから日本を変えるという大きな夢に向かって羽ばたけた。小さな器の中にはその器の中の夢しかない。だから俺は俺の夢のために会社を飛び出すのよ」
「私が辞めようかと迷っているとき絶対ダメだ、って止めたじゃないですか」
「それは後ろ向きの理由だからだ。逃げるためならどこに行っても成功しない。お前の夢のためなら応援したさ」
「浮田が首になったら2人で祝杯をあげようと言いましたよね」
「それも器の中の出来事や。その器を飛び出してみろ。小さい小さい」
後藤田は「会社はトップの器以上には大きくなれない」と言っていた。人もまた器以上にはなれないものなのか。器以上になろうと思えば飛び出すしかないのか。ぼんやりとそんなことが平田の頭を過った。
「それで会社を辞めて何をするんですか」
「土佐に帰って百姓をしようと思っている」
「百姓ですか」平田は思いがけない返答に驚き、小さく叫んでいた。
「そうだ。無農薬有機野菜を栽培して東京の市場に送るのだ。健康志向が高まっておりかなりの市場がある。知人を通じてすでに幾つかの販売チャネルも確保している。健康で美味しい野菜を提供することで皆さんに喜んでもらえば手応えも伝わるし人の絆もできる。俺の存在を実感できるじゃないか。いろんな野菜を試して市場を掘り起こしたり、新種を開発したり、可能性はいっぱいあって楽しいぜ。こんな理想はない。将来的には人も雇って、まずは10年くらいで年商1億を目指そうと思っている。それくらいが限界だろう」河原は目を輝かせていた。
「そりゃ、軌道に乗ればいいですがそれまでが大変でしょう。奥さんは納得されているんですか」
「そりゃそうさ。最初は大変だと思うが何がしかの収入は必ずあるし、無職にはならないのが強みだ」
「それで生活はできるんですか。お子さんはどうするんですか。これから学費やなんかいるでしょう」と言いながら、愚問だったと悟って言葉尻が挫けた。
「大丈夫さ。メシを食わせるくらいはなんとかなるよ。可哀想だとかいうのは親の深情けで、子供は逞しく強かに生きていくものさ。俺が子供のときも貧乏だったが悲しいと思ったり、いじけたりしたことは一度もなかったぜ。親がしっかり働く背中を見せて、慈愛の目で見てやれば子は立派に育つさ」
平田は自分もそうだったと思い出し、そんなことに拘る河原でないと思い直した。
「河原さんの夢のためなら止めるわけにはいきませんが、寂しくなります。段々私の周りから支えてくれた人がいなくなるんですよ」
「お前に独り立ちの時期が来たということよ。お前がまた誰かのために支えになったり、道を示していかねばならんようになったのよ。お前はいくつになる」
「40です」
「不惑か。40にして惑わずだ。不惑の覚悟を肝に銘じにゃならんな」
「しかし、河原さんだって不惑をとうに過ぎているのに道を迷ったじゃないですか」
「迷ってなんかいないさ。これは迷いじゃない。俺には夢がある。常に前向きだよ。常に夢を求めて生きている。最後に生涯を掛ける夢を見つけた」
平田にはなんだか強がりに響いた。
それにしても、そうした夢に羽ばたける河原が羨ましくもあり、そんな夢を見出せない自分が寂しくもあった。
「お前の夢はなんだ。自分の夢を探せ。できなくてもいい。自分の夢に向かって進んでいるとき人はいつまでも輝いていられる」
樋口が夢の経営へ大きく一歩を踏み出したとき、河原もまた自らの夢に向かって静かに、しかし晴れがましく去っていった。

河原が去った後、平田は考えさせられた。確かに河原のそれは理想的夢だろう。しかし、自分にも立派な夢があるではないか。それは川岸と誓い合った会社・人事を変えるという夢だ。人事に赴任してきたとき、川岸と誓い合った夢だ。
“どうせ人は夢や理想を求めて生きている”そんなことはわかっている。
“自分の生きる世界が会社なら、そこに情熱を傾ける夢が要る”
「会社を変える」命を燃やすに十分な夢ではないか。
会社を飛び出すには、会社以上に大きい夢と人間に育つしかない。

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