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汚れ役

更新 2010.04.15(作成 2010.04.15)

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第5章 苦闘 42. 汚れ役

春闘の交渉では、既に係長主任の改定原資は回答に含むという前交渉が進んでいる。役員会の承認待ちという前提ではあるがおおよその額も内通してある。しかし、要求とギャップが大きい回答水準の中で組合がすんなりOKしてくれるわけもなかった。
世間の春闘相場は5%後半で、ナショナルセンターレベルの交渉は6%の大台に乗せるか乗せないかの攻防が続いていた。実態経済指標はバブルの名残を惜しむようにモメンタムを残し、後追い性格の賃金指数はまだ高かった。
中国食品の組合でも、CB発行に向けての決算数値を作るため史上空前の業績を出しておきながら低く抑えられた前年度賞与の失地回復を、と意気込んでいる。
一方の会社は、マル水に山陰工場を一時的に買い取ってもらいファイナンスを実施するための決算を繕った手前もあり、大盤振る舞いは厳に慎まなければならないことだった。ファイナンスを成功させ研修センター建設や営業基盤強化のためと回答は厳しく押さえられた。
組合と会社の意地と意地がぶつかり合うその間に窮屈に挟まれた人事は、それでもしたたかに係長・主任手当の改定を提案していった。そのことが組合の神経を逆撫ですることとなり、火に油を注ぐように一層態度を硬化させた。
こういうとき、制度改定の移行原資を回答の外に出せ、出さないの議論はよくある話だ。しかし、それは建前論に終始することが多い。家族手当や住宅手当を要求するときは回答の中に入れるではないか。技能手当や危険手当など業務関連手当もそうなら、係長・主任手当も回答に入れてもいい。回答全体の水準の中で個々の配分の問題として論ずべきだ。そのことは組合もわかっているが、水準論で納得点に到達できないから建前で抵抗を繰り返す。
「会社は利益が出ているし、昨年の一時金だって会社に協力して我慢してきたんです。今年の業績見込みだって対前年比は世間と大差ないじゃないですか。ここはなんとしても改定原資は外に出してください。そうすればちょうど世間並みの昇給率になります」
しかし、そんなことで動かされる川岸ではない。川岸は頑として聞かない。
「経営基盤を盤石なものにするという会社の考えは昨年と少しも変わっていない。賞与を我慢したから賃金を上げろの理屈は成り立たない。今年のわが社の賃金がどうあるべきかだ。係長・主任の手当だって君たち組合の仲間じゃないか。賃金改定に含まれるのは当然だ」
こうした取り組み姿勢については、川岸は厳しい態度で臨む。
「移行原資の内訳はどうなっているんですか」
「それは後でヒーさんに教えてもらいんさい。問題は今春闘をいくらで終わるかだよ」川岸は論点をそれ一本に絞って、嗜(たしな)めるように続けた。
「要は、こうした諸々の要素をまとめて今賃金改定がいかにあるべきかであって、日本経済がひっくり返っておるときに押しなべて世間の回答が高いんよ。わが社はじっと我慢をしファイナンスを成功させ、経営基盤を固めて次の時代に備える。それが正しい経営だと信じている。係長・主任手当もその一環だ。会社の形というか佇まいを少しずつ気がついたときにできることから正していく。過ちを正すに憚(はばか)ること無かれだ」
「管理職手当も改定されるじゃないですか」
「当然です。係長・主任の手当を改定すれば残業なんかを計算したら逆転してしまう。だからこれも正すべきは正していく」
「管理職手当の改定はどれくらいなんですか」書記長の甚田が質問した。
川岸は、平田に答えてくれという視線を送った。
こうした呼吸は、すでに目を合わすだけで通じ合えるようになっていた。
「管理職1人当たり5,310円です。」平田が資料を確認しながら答えた。
「えらい高いじゃないですか。そんな原資があったら組合に回してくださいよ」すかさず横から援護射撃が入る。
「それはできない。今回は制度の見直しと同時に管理・監督職の手当全体の見直しだ。人事は管理職も組合も一体のものだ」川岸は頑としてはねのけた。
こうした会社と組合の押し問答が連日繰り広げられ、お互いの思考をこじれさせた。そのこじれが、組合内部の論議をも捻じれさせていった。
「一体なんで今ごろこんな提案が出てくるんや。川岸さんも頭がどうかしたんやないんかね」
「ヒーさんやないんかね。あれが要らん知恵を吹き込んどるんやろ」
「組合の立場もわかるやろうに。もう、会社人間になりきってしまったんかのう」
もはや素直な政策論議より、感情論から人格攻撃になっている。
「行き当たりばったりの小手先の政策ばかりを出されても、振り回されるだけよ」
「春闘というよりも、そもそも基本的にどんな考えがあるんか確認する必要があるんとちがいますか」書記長の甚田広隆が高飛車な態度で平田を呼び出すための含みを込めた物言いをした。
「それは一度確認しておいたほうがいいやろね」
委員長の坂本は感情を抜きにしても、会社の真意を確認する必要性を感じておりそれを後押しした。
「呼び出していいですか」甚田が逸(はや)った。
「そうせんと納得できんやろ。川岸さんも、手当の内訳は後でヒーさんに確認せーと言っとったし、来てもらったらいいやんか」坂本は許可した。
甚田は早速平田に電話を入れて、来てくれるよう頼んだ。
呼び出しを受けた平田は、いつか坂本が「考えをまとめたり、クールダウンにはちょうどいい距離なんですよ」と言っていた組合事務所までの5分の道のりを気重にゆっくり歩いた。
もはや川岸の了解など取らなかった。課長の高瀬に「組合に行ってきます」とだけ告げて出ていった。それでも承諾してくれる自信があったし、それにやはりここは自分の役割だと思っている。言われることはおよそ察しがつく。こんな汚れ仕事を川岸にやらせるわけにはいかない。やはり川岸には、大向こうを相手に舞台上で啖呵を切る主役であってくれねばならない。黒子として舞台を設えるのは自分たちだ。
平田が組合の事務所に出向くと、みんなの恨めしそうな顔がこっちを向いた。
賞与のときにもこんな場面があったが、あのときのみんなは立場は立場として尊重してくれていた。しかし、今日は違う。てぐすね引いている様子がひしひしと伝わってくる。

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