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悲しみの人事

更新 2016.05.23(作成 2009.03.13)

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第5章 苦闘 3. 悲しみの人事

さらにその1カ月後。冷凍機用のアンモニアガスタンクに小さなヒビが入りシューっとガスが漏れ出す事故が発生した。工場のユーティリティスペースでアンモニアの臭いがしたことで発見された。悪いことが重なるときは重なるもので、まさに泣きっ面に蜂だ。
アンモニアガスは有毒だ。付近の住宅にまで広がると大変なことになる。幸いなことに軽微だったことと、たまたまアンモニアガスが水に溶けやすい性質をしていたため大事には至らなかった。危機一髪だった。
消火栓の水をタンクに掛け続け噴出するガスを吸収させながら専門業者にガスを抜き取ってもらい、新しいタンクに交換した。その間の3日間製造が止まった。折しも夏商材のストック生産に忙しい時期であったため会社への打撃は大きかった。
こんな事故報告が上がるたびに樋口は苛立ちを募らせた。このままではせっかくスタートした飛翔の中計の出鼻を挫くことにもなりかねない。ついに我慢の限界を超えた。人事部長の川岸を呼んで確認した。
「どうだ、このままで乗り切れるか」
「いえ、難しいでしょう。もともと製造部への不満が燻っているようですし、何らかのスケープゴートが必要でしょう」
「それはわかっちょる。次の異動までもつかどうかだ」
山陰工場閉鎖のことは樋口も気になっていたようである。しかし、業績不振ではトップ2人が引責辞任しているし、山陰工場閉鎖の責任だけでは更迭するのは難しかった。これは経営責任の範疇だ。しかし、現場は感情だ。そんな建前にはお構いなく山本のような才走った人間に憎悪の矛先が向けられる。
「だめです。ラインが動きません。このままではまた何が起きるかわかりません」
「そうか。仕方がない。代えろ。早いほうがいい」
川岸は、その日のうちに山本を製造部担当課長に更迭する案を稟議した。2段階降格に相当する。山本の不人気はつとに有名だ。山陰工場建設の経緯も聞いている。そんな自己中心的考えを川岸は許せないと思っていた。川岸は容赦しなかった。こういうところでは川岸も冷徹な一面を持っていた。
この稟議に他の役員は誰も反対しなかったが、浮田一人が製造部に置くのかとクレームをつけた。社内中から煙たがられている火中の栗をあえて抱えるほど寛大ではない。特に樋口の機嫌を損ねた者に係わりたくなかった。浮田にとってはもう用済みの者なのだ。
これには川岸も怒りが込み上げた。
「しかし、もともと常務のお側にいたものですし、常務が工場長に推挙されたんじゃありませんか。最後まで面倒見てくださいよ」
樋口の意向を受けての稟議である。何がなんでもやり遂げねばならない。
「社長のご意向です」とやれば簡単だったが、自分の力を試してみたかった。浮田をグッと睨みつけ、強い口調になった。
川岸は一介の平部長にすぎないし、浮田は不人気とはいえ押しも押されもせぬ常務取締役だ。しかし2人の関係は対等もしくはそれ以上の物言いが成り立つようになっていた。
“押されっぱなしだ”浮田は苦々しく思いながらもその関係を受け入れざるを得なかった。団交での失態や山陰工場の失敗、工場長人事など墓穴を掘ってしまったため今や自分の権威は最悪の状態まで失墜していた。というよりついに実力の化けの皮が剥がれたにすぎない。何よりも樋口の信頼という点において川岸に大きくリードを許している。パワーゲームではこれが一番大きく物を言う。今、その樋口の信頼を得るのは仕事に対する真摯な取り組みだけだ。悔しいがもはや自分にはその情熱も若さもない。
一方の川岸は樋口の信任も厚く組合を向こうに回し堂々の論戦を展開し、常に会社側がリードする形で事態を混乱させることなく解決している。その論理も胆力も一目を置かざるを得ない。浮田はここで御託を並べても常務の立場というだけで押し切れないと悟っていた。川岸はそれだけの実力と自信をつけていた。なによりも樋口の厚い信任は揺るがしがたい。

山本は担当課長に格下げされ、製造部に配属された。その後の山本はほとんど誰からも相手にされることなく、表舞台に登場してくることは二度となかった。頭もいいしいい考えもするのだが、山本の発案というだけでその案は敬遠された。山本自身も次第にいじけてしまい、まるで枯れ木が朽ちていくように生気を失っていった。
8年前、浮田に阿(おもね)るように平田との事前確認をいとも簡単に裏切り、平田から山陰工場建設の企画業務を取り上げ、あまつさえ企画書を捏造し引き換えに山陰工場の工場長に納まった。その当時の野心に満ちた覇気は完全に影を失い、今ではみんなから疎まれる存在に身を落としてしまった。もともと上昇志向が強かっただけにその凋落ぶりは天と地ほどの違いである。いつの世も野心家の末路はあわれである。彼もまたサラリーマンの出世競争という戦場で敗れていった一人だろう。「面白い人生だった」というには少し早すぎる散り際だ。
平田はこの人事をとても悲しい思いで聞いた。
「俺を裏切って工場長になりながら挙句の果てがこれですか。私の人生を狂わせた代償がこれですか。どんなに無様でも泥だらけでもいい。しっかりしがみ付いていろよ」そう叫びたかった。
「8年前のあの時。俺だったら死に物狂いで部下を説得するよ。『お前の気持ちはわかる。だが、常務もああ言っていることだし、ここは我慢しよう。悔しさは酒で流そう』って。その一言がなぜ言えなかったのですか。そう言って肩を叩いてくれたら、私もあなたも今こんなに悲しまなくて済んだはずだ。あなたが味方してくれたら工場建設は阻止できたかもしれない。例えできなくても、もっと晴れ晴れした気持ちで生きていけたはずです。2人して冷や飯を食ったかもしれないが、もっとあなたと心を通わせることができたはずです」
平田は目の前の椅子を蹴飛ばしてその場を離れた。そこに居合わせた者皆が驚いたが、誰も平田の気持ちを理解することはできなかった。わかるとすれば平田と山本の本人たちだけだろう。もし山本に少しの正義と部下への心配りがあればこの悲劇は起きなかった。
「少しでも心の呵責を感じるなら、『すまん』と一言俺に言えよ」
腹の底から込み上げる怒りの叫びだった。
平田が子供たちを工場見学に呼ぶ少し前のことだった。

人間、実力以上のポストに就くと無理が祟る。苦労するだけだ。まして山本のように邪(よこしま)な考えでポストを手に入れたとしても、必ず報いが来る。そんな身勝手は世間が許さない。
しかし、その一方でチャンスが巡りここ一番踏ん張り所という時もある。それは天の時、人の声が「お前がやるのだ。お前しかいない」と自然に背中を押してくれるものだ。そのときは死に物狂いで踏ん張るしかない。一生の間に1度か2度必ずそんなチャンスが訪れる。それは無理に自分で取りにいくものではなく、自然体で頑張っていればいい。地道に努力さえしていれば必ずいつか巡ってくる。それまでじっと力を養っておくことだ。

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