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怨念の記憶

更新 2016.05.24(作成 2009.11.25)

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第5章 苦闘 28. 怨念の記憶

「お父さん明日の通勤は大変ね」
いつしか側に来て一緒に窓の外を見ながら妻が話しかけてきた。
「しょうがないさ」
「私思うことがあるんだけど」
「何」平田は何事かと妻の顔をマジマジとのぞきこんだ。
「私たち引っ越さない」
「エッ」平田は唐突な提案にしばらく口が利けなかった。
「引っ越すと言ったってどこに」やっと出た二の句はつなぎの質問だった。
「いいから、ちょっと私の考えを聞いて」そう言って平田を座卓の前に座らせた。
「まず第一にお父さんの通勤が心配なの。仕事は忙しいのに毎日片道1時間半もかけて、もし何かあったら大変よ。病気にでもなったら元も子もないでしょ。結局何もできなかったことと一緒よ。だから少しでも会社の近くに引っ越して楽になってほしいの。それが1つ。第二は子供の学校のこと。ここから受けられる高校にいい学校がないのよ。せいぜいK高校かK陽北高校しかないの。どちらもフワッとした校風でびしっとした厳しさがないのよ。大学合格者もここ何年も広大合格者が1人も出ていないくらいの学力レベルなのよ。私はせめてY古市高校か旧市内5校に行かせたいの。そうしないといい大学に行けないでしょ。子供たちのためにもチャンスを奪いたくないのよ。この可部の町から出るべきじゃないかしら。家があるからといって、こんな不便なところに縛り付けられたような人生を送るのって発展がないと思わない。ここは会社が可部にあったからこその選択だったと思うの」
「どうしても出なきゃだめかな」平田は、苦しかったローンが最近やっと少しは楽になったばかりなのに、これからまた新たなローンを組まなきゃならないのかと思うと億劫だった。
「そりゃ出なきゃ出ないでなんとかなるけど、子供たちの人生まで可部の町で終わらせることになるのよ。これを機会に私たちもステップアップしようよ」
妻もいろいろ考えていたのであろう。長い人生の送り方の中で平田の考えが及ばなかったことを補うように語ってくれた。
「なるほどね。確かに子供の学校の問題は大きいね。将来に関わることだからな」
「学校だけじゃなくて、卒業して勤めに出るにもここからじゃ大変でしょ。先のことを考えたら今のうちに出るべきだと思うのよ。子育てには田舎がいいと思ってここに家を建てたけど、子供たちも伸び伸びと育ってくれたしもうその時期は過ぎたんじゃないかしら。子供たちももう自分の将来のことを夢見ているようよ。それに上の子は今度中学でしょ。替わるのにちょうどいいんじゃないかと思って」
「しかし、どこに行くかね」
「最低でも可部の町は出ないとだめね。もうすぐアストラムラインが完成するでしょ。その近くに行くべきじゃないかしら。アストラムができたらどこに行くにも便利よ。通勤も通学もどこへでも行けるでしょう」
アストラムラインは4年後のアジア大会に向けて建設中の広島の新交通機関である。
「資金はどうなる」
「この家を売れば残りのローンを返済しても頭金くらいにはなるでしょ。それに多少の貯えを足してローンを組めば何とかなるんじゃないかしら」
「ウーン。そうか。そこまで考えているのか。わかった。俺もちょっと考えるわ」
窓の外はもうすでに真っ白に雪が積もっていた。窓の曇りを手で拭いてしばらく眺めていたが飽き足らず、掃き出しから庭に出てみた。軒先が雪を被るのを防いでくれる。平田はついさっきの妻の話を反芻しながら決断するのにそれほど長い猶予がないことを思っていた。
“確かにこのままでは俺自身の人生に限りが見える。子供たちの人生までもこじんまりと縮こまってしまうようだ。しかし、今更新しいローンを組み直すのは大変だし、リスキーだ。どれほどの支払い余力があるのだろう”
そのとき「お父さんご飯食べよう」息子が呼びに来た。その顔を見た瞬間、平田の決心はついた。
“この子たちのためや。もう一頑張りするか。苦労は俺たちがすればいい”
名残を惜しむように雪の空を振り返り、
“この雪は通勤には大敵だ。車は渋滞するし、足元はぬれるし、会社には遅れる。それでなくてもここから会社に通うのは限界だな。本気で仕事に取り組もうと思えばこのままではやれない」
平田は引っ越しを決意した。
川岸の言う、人事から会社を変えたいという夢を実現しようと思えば遮二無二頑張るしかない。浮田にやすやすと左遷させられた不甲斐ない人事の仕組みを変えなければならないのだ。
しかし、平田をそこまで突き動かすものはそうした情熱だけではない。浮田への怨念が記憶の奥深いヒダにいつまでも引っかかっていた。
“いつか見返してやる。あんたの人事がミス人事であることを証明しなければ俺の気持ちに収まりがつかない”思い出すたびに悔しさが込みあがった。
“それに浮田自身の背徳にはまだ決着がついていないではないか。今のところお咎めなしで済んでいるがこれからどうなるのか、浮田の行く末を確認しなくては自分の人生に大きなシコリを残したままになる。会社を巣食うあんな人間がのうのうと生き残っていていいのか。なんとか退任に追い込めないものか。それまでなんとか頑張り続けなければ自分が情けない”
そんな言いようのない悔しさが平田を一途に仕事に突き動かし、心に刃をしのばせた日々を送らせていた。

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