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我慢の限界

更新 2016.05.23(作成 2009.08.06)

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第5章 苦闘 17. 我慢の限界

予算の提出日が来週の水曜日に迫った週末。計算式の修正を済ませ何度かのシュミレーションをしてみた平田は、鈴原から出てくるはずの要員計画を待っていた。週末を徹夜して頑張っても間に合うかどうか、ギリギリのタイムリミットを迎えていた。
「鈴原さん、まだですか」平田は催促してみた。
鈴原は平田と同じ歳でやはり主任をしていた。大人しい性格でけして上司に逆らうようなことはない。その代わり自分の意思や考えは皆無と言っても過言ではないような、従順なだけが取り柄の人間だった。しかも、そのことだって面従腹背を地でいくようで何を考えているかわからないところがあった。
「ウ、ウン」鈴原は曖昧な返事をするだけで一向に焦ろうとしない。
平田は、苛つく気持ちを抑えてジッと鈴原を見つめた。
鈴原は、「シーッ」と息を吸い込み、「フーッ」と吐き出す。時々、引き出しから何やら書類を引っ張り出してはパラパラとめくり、しばらく眺めているかと思いきやまたしまう。そして「シーッ」「フーッ」と息をする。しばらくするとまた同じ書類を引っ張り出しては眺めている。そんな動作を何度となく繰り返しているだけである。何気なく見ているといかにも仕事をしているような錯覚に陥るが、仕事は全く進んでいない。
“一体この人は何をしているんだろう”平田は不思議だった。
「鈴原さん。今日中にお願いします。でないと間に合いませんので」
鈴原は、チラッとこちらを見ただけで何食わぬ顔をしている。
平田は待つより他に仕方なかった。森山も横から、「俺も待ってるからな」と催促している。
ついにその日は暮れた。夜の7時になっても鈴原からは何も上がってこない。高瀬も気になって「どんなかね」と尋ねてきた。
「いや、まだ鈴原さんから人員の推移が出んのですよ」平田はありのままを告げた。
「鈴原さんはどこ行ったん」高瀬が叫んだ。
そういえば先ほどから姿が見えない。みんな不思議がって辺りをキョロキョロしている。
横で、居合わせた女性社員たちが笑っている。
「きっと、夕食を食べに帰ったんよ」柏村がいつものことのようにサラリと言ってのけた。彼女たちはこうした男の行動をよく観察している。
鈴原は、マル水がマンションを売り出したときどうせ本社が移転するならとその1戸を自分で購入していた。すぐ隣である。確かに夕食も食べに帰ることも可能だ。
週末のこともあり厚生課や教育課のメンバーは既に帰っており、残っているのは平田ら人事課のメンバーくらいである。
「まったく、いい加減やな」高瀬もかなり頭にきているようだ。
鈴原が戻ってきたのは9時を過ぎてからであった。鈴原を見かけなくなって優に2時間は過ぎている。のんびり食ってきたのであろう。
「鈴原さん、何をしよるんかね。みんな待っとるんやで」高瀬は鈴原の顔を見るなり大きな声で詰った。
普通は人を待たせていると思えばそそくさと済ませる。いや飯が喉を通らないはずである。無責任というか、なんという不誠実であろう。大したものだ。
「いやー。チョット晩飯を食いに帰っとったんですよ」鈴原は、臆面もなく涼しい顔で言いのけた。
「そんな呑気にしとる場合じゃないやろ。みんなあんたの数字を待っとるんやで。もう少し真面目に考えてや」
「はいはい、やります」しかし、言葉とは裏腹に顔は一向に悪びれる様子はなかった。
「ヒーさん、あんたも今のうちにどこかで飯食ってきたら。遅なるで」
高瀬の気遣いに平田も近くの一杯飯屋に遅い夕飯を取りに出かけた。
平田が帰ってきたときには女性社員たちは既に帰り、もはや人事部には平田ら4人しか残っていなかった。
「どんなですか」平田は鈴原の横に行って仕事の進捗具合をのぞいてみた。
しかし、作業は平田が飯を食いに出かける前からまったく進んでいなかった。
“バーン”平田は机を叩いた。我慢の限界である。
「いい加減にしてください。どうしよるんですか」大きな声で怒鳴りながら鈴原の仕事をのぞいた。眠そうにしていた高瀬と森山がビックリして飛び跳ねた。
「この退職予定者と代わりの臨時員の採用数を入力すれば出るようにはなっとるんですよ」
シュミレーションは前月末の在籍者から当月の退職者をマイナスし、新規採用者数を入力すれば当月の従業員数が出る。それを12カ月繰り返すだけの単純なものである。ただ、いつどんな人がどれくらい辞めるかの予測が経験である。しかし、それは既に表の中に予測して書き入れてある。問題はその信憑性である。
「この数字はどうやって作ったんですか」
「去年の実績を元にしとるんですが、景気が悪くなってきたから少し退職者を少なくしたんよ。それがいいかどうか」その決断ができなかったのである。
「予算なんだから、自分がそれがいいと思ったら提案してみたらいいじゃないですか。なるほど。よう、出来とるじゃないですか。打ち込んで出してみましょうよ」
「うーん、そう慌てんでも来週の水曜まででいいんやろ。あんまり早くすると、後ですることがなくなるからね」
「ふざけないでください」
“バーン”怒鳴るのと再び机を叩くのが同時だった。

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