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前途多難

更新 2009.05.25(作成 2009.05.25)

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第5章 苦闘 10. 前途多難

「ちょっとみんな集まってくれ。今日から人事部に来てもらうことになった平田さんです。紹介します」
9時のチャイムが鳴ると川岸は中央に出て平田を紹介した。
「何もわかりませんがよろしくお願いします」ありきたりだが、平田は臆せずあいさつした。
川岸はその後、3本部長のところに引き回してくれた。これも異例といえば異例だ。一主任の異動を部長が全本部長に引き合わせるなんてありえないことだ。初めて本社配属になったようなケースで、勝手がわからないだろうからということで直属の上司である課長かせいぜい次長が各部署を紹介して回ることはある。まして平田の場合はほとんど顔見知りである。これも川岸の期待の表れであろう。
最初は人事部に一番近い7階の浮田のところだ。
「今日から人事部に来てもらうことになりました。よろしくお願いします」つい先日ごり押しした相手だ。川岸は可笑しかったが平田がその後苦労してはいけないと思ってきちんと紹介した。
「おう、来たかね。まあ、お手柔らかに頼むよ」浮田の顔は決して笑っていなかった。
「よろしくお願いします」平田がそれだけ言うと、
「それじゃ、失礼します」と川岸はさっさと部屋を出ていった。平田も一礼して、慌てて川岸に続いた。
部屋を出た途端、刺すような視線が平田に向けられているのを視界の端に感じた。飛んできた視線の先をたどると、そこには挫折に打ちひしがれ恨めしげに平田を睨みつける山本の顔があった。
“違う。あなたに恨まれる覚えはない。逆恨みだ”平田は、とっさに山本の視線に逆らいながらやはり悲しい思いが込み上げた。
“あなたの飽くなき欲求が、かっては同じように私をそこまで陥れたのですよ。私は腐らずに頑張ってきました。私は吉田さんや豊岡さんを信じ、6年経ってやっと川岸さんの信頼を得ました。あなたは部下にも信じられず悲しい事件が起きました。私は復帰し、あなたは挫折へ。2人とも原点に戻ったようなものです。さあ、あなたはこれからどう生きていきますか。私は挫折から復帰し、あなたは栄光から挫折へ。なぜこんなことになったのか、この事実をしっかり受け止めてまた輝きを取り戻してください”
平田は、そんな思いを残しながら製造部の部屋を後にした。そしてその思いを最後に、その後山本のことを意識することは二度となかった。
川岸は7階から営業本部の5階に下りる階段の途中で足を止め、平田の耳元に口を近づけて、
「この前はな、『平田君は工場の優秀な人材だから人事部には出せん』なんて言ってたんだぜ。それなら大事に使えってんだ」と、浮田とのやり取りを漏らした。よほど腹に据えかねたのだろう。ベランメー口調になっている。
平田はどう反応していいかわからず、「そうでしたか」と言うほかなかった。

営業本部長は河村だ。平田もよく知っている。河村は「頑張れよ」と言いながら手を握り、魅力的な破顔を見せながら平田の肩を叩いた。
続いて、経理の新井常務を済ませ、
「あとのところは自分で行きんさい。大丈夫やろ」と4階のエレベーターホールで分かれた。
「はい、知った人ばかりですから。ありがとうございました」
平田は、川岸が8階までのエレベーターに乗るのを見送って、最初に3階の電算室に下りていった。荻野のところだ。
室長の榊下幸二にあいさつし、部屋中を見渡しながら大きな声で「皆さん、よろしくお願いします」とあいさつした。平田が帰ろうとすると荻野が笑いながら自分の椅子のとなりに予備の椅子を準備し、「話をしていけ」と無言の催促をし、側にいた女性社員にコーヒーを買ってきてくれと小銭を渡した。
平田もあいさつの連続で少し気疲れ気味だったので、ホッと安らいだ。平田は、このひとときの計らいで人事部に戻っても朝の緊張は随分と緩和された。
「良かったですね。歓迎会せないかんですね」荻野は、周りの若い者にも言い聞かせるように声高に話した。
「うん、ありがとう。この前は世話になったな」
「いえいえ、これが本当なんですよ。遅すぎたくらいですよ。なんでも相談してください。人事のことは私が一番知っていますから」
荻野は人事部の電算システムを一手に引き受けており、実状を熟知していた。
「うん。頼む。既に問題を感じとるんよ。先が思いやられるよ」
「そうでしょうね。平田さんだったらそう思うはずです。それで何かあったんですか」
「うん。実はな、朝一人ひとりあいさつしたんだけど、男はなんかみんな快くあいさつしてくれんのよ。なんと言うか邪魔くさいような、迷惑そうな態度なんよ。俺何か悪いとこに来たのかなと思ったよ」
「あー、わかるような気がしますね」
「本当かね。何があるの」平田は、荻野の意外な反応に驚いた。
「いえ。何もないんですが、みんなの悋気(りんき)ですよ」
「悋気!……何を妬むわけ」平田は思わず大声になりかけた。思いもよらぬ言葉に驚いた。

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