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創立25周年

更新 2016.05.19(作成 2008.11.05)

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第4章 道程 19. 創立25周年

昭和62年、中国食品は目を見張るような業績の回復をみせた。山陰工場の償却費や製品輸送における逆送費の削減、工場の人件費の軽減、これら経費の圧縮が丸々利益に貢献してくる。なんと言っても営業部門の頑張りが売り上げを飛躍的に伸ばしたことが大きかった。それらが相乗的に機能し合い、ついに赤字経営からの脱却を成し遂げた。
樋口の打つ手は鮮やかに功を奏し、就任2年目にしてそれまで3年間続いていた赤字経営から見事に黒字経営に転換させたのだ。
もともと食品産業は粗利益率が高く、一定の損益分岐点を越えると大きく利益が伸びる特徴がある。しかし、比較的安定した業界でありよほどの大ヒット商品でも出さない限りそんなに大きく売り上げが変動することもめったにない。逆に、品質不良や異物混入などのトラブルを起こせば一気に売り上げが落ちるのが食品業界だ。
ただ、中国食品は山陰工場閉鎖で固定費が大幅に下がり、利益の出やすい体質に改善していた。10月時点で昭和62年度の業績見通しは経常利益で12億円の黒字の見通しになった。売り上げも予算をわずかながら上回り、ベースの低い前年対比では5%増の見込みである。前年度が20億円の赤字だったから都合32億円の改善効果を出したことになる。
営業マンたちがやる気を取り戻し、売り上げが回復した背景の1つに堀越の営業本部復帰があった。彼の営業施策に対する現場の支持は厚く、遂行率は高かった。
労働集約型産業においては、人のやる気がこれほど業績に影響するものかと改めて認識させられる。

翌昭和63年は中国食品株式会社の創業25周年の記念の年に当たる。
運も実力のうちと言うが、樋口は運がいい。赤字のままだったら25周年記念も寂しいものにならざるを得なかったであろうが、幸いにも黒字転換の目処が立ち社員の士気は盛り上がっている。樋口は、この勢いに弾みをつけるような一大イベントを計画せよ、と指示した。

人間、いつ運が向いてきてもいいように常に努力と備えをしていなければ運を掴むことはできない。人間一生の間に1度や2度は必ず運が向いてくるものだ。それがいつかわからないが1度か2度である。日ごろの努力はその一瞬のチャンスのためである。また、その努力が人をして認めさせることになる。つまり運を呼び込む。

昭和62年5月、創立25周年記念事業推進準備室が立ち上がり事業内容が練られていった。記念事業全体に流れるコンセプトは「21世紀の飛躍への誓い」と決まった。準備室はこのコンセプトを確認し、大会での行事内容、関係者への案内、論文の企画、など慌ただしく練っていった。
そして7月、創立25周年記念事業の概要が発表された。
1つ、全社員を一堂に集めて記念大会を催す
2つ、25周年記念懸賞論文を募集する
3つ、中国5県の各県に対し、それぞれ500万円ずつ寄付を行う
4つ、中国食品25年史を編纂する
というものだ。各テーマごとに小委員会を作って準備していった。
付帯事業として、これを期に本社を市内に移転する、というのがある。本社移転と県への寄付は、名目は記念事業の一環だが実務は総務部マターとなり準備室から外された。
中国食品の創立は昭和38年2月18日である。記念大会は、株主総会も春闘も落ち着いた昭和63年4月9日(土曜日)開催と決まった。
大会の参加者は、中国食品と関係会社のパート、アルバイトを除く全従業員、ならびに株主筋や取引会社来賓などで、総勢1,500名をゆうに超える。北は鳥取、倉吉から南は下関営業所までの全事業所の社員が一堂に会することとなった。これほどの人数が一度に集まれる所といえばそう多くはない。広島市が成人式などに使う広島サンプラザ大ホールに決まった。
社員の関心を引いたのは懸賞論文の募集だ。厳正な審査を行い、1位入賞者1名に50万円、2位入賞者2名には25万円、3位入賞者3名には10万円がそれぞれ贈られることになった。準備室の案では、25周年記念とゴロもいいので1位が25万円となっていたが、樋口は「そんなものではダメだ。ゴロ合わせなんぞ自己満足に過ぎん。社員がウワーと目を見張るようなものにせんと意味がない」と倍に引き上げさせた。
テーマは「飛躍への提言」で、応募資格は中国食品とその関係会社全従業員。21世紀に向けて会社が大きく飛躍するためには、広く従業員の意見を聞き、英知を結集し、参画意識を高めることが大切だとの判断からだ。そんな会社の姿勢を社員に示すことと、やっと出始めた社員のやる気に弾みをつける狙いが込められた。

この時期、昭和62年(1987年)日本の経済環境は大きく変化していた。
昭和60年(1985年)膨大な貿易収支の赤字に悩まされていたアメリカが、財政危機をドル安で乗り切ろうと先進国による協調介入、いわゆるプラザ合意を取り付けた。そのことにより、ドルは大幅に下落し円高が進行していった。ちなみにその後の円ドル相場は、プラザ会合の翌日1ドル215円だったものが、1年後には120円までの円高になっている。日本の輸出産業にとっては大きな打撃だ。
日本の昭和60年代の円高不況はこうして始まった。
その後行き過ぎたドル安修正のため、ドルの金利引き上げが観測されるとニューヨーク株式市場は一気に暴落し、それを発端に世界同時株安となった。昭和62年(1987年)10月に起きたいわゆるブラックマンデーである。このときは各国金融当局の適切な対応で、辛うじて実態経済への深刻な影響は免れたものの、「スワッ、大恐慌か」と世界を震撼させた。
これ以上円高になると日本経済は立ち行かない。海外からは内需拡大が要求される。日本政府は、高くなりすぎる為替対策や不況脱出に向けて金融緩和政策を推し進めた。
その結果、日本は大きなバブルを生み出すことになる。1989年12月日経平均株価38,915円の史上最高値などはその象徴だろう。しかし、本当に深刻だったのは不動産バブルだった。そしてそのバブルがはじけ、失われた10年が始まった。
バブル崩壊後は、デフレ対策として一層の低金利政策を余儀なくされ、ITバブルの一時期を除いては修正することができないまま今も続いている。そして、サブプライムローン問題だ。

バブルと恐慌は、債務(信用)の膨張と収縮の行き過ぎである。過去を振り返ると、1950〜60年代はアメリカ経済の黄金期で、消費の象徴であるウォルトディズニー株は20倍強に跳ね上がった。1973年オイルショックが起きると、1980年まで金への投資ブームが起き、これも20倍近く上昇している。80年代は日本のバブル経済が起き、1987年にブラックマンデー、90年代はITバブル。2000年代は中国への投資ブーム。
どれも何らかの要素が働いた信用や期待の行き過ぎか剥落である。相場はマインドゲームである証しだろう。見えない実態を思惑で売り買いする。
そして今またサブプライムがはじけた。世界の経済はほぼ10年周期でバブルと収縮(正常化)をどこかで繰り返している。そのたびに金融システムの見直しやてこ入れが行われているが、市場のダイナミズムはそれをしのいで実態経済以上のオーバーシュートを繰り返す。このことは心のどこかに留めておいて損はなかろう。企業運営あるいは財テクの何かの役に立つかもしれない。
恐らく、この過剰債務正常化(信用収縮)の過程の中でアメリカを中心に超金融緩和政策がしばらく続くだろう。そして、それはまた新たなバブルをどこかで何かに作るのだろう。もしかしたら、今度は円あるいは日本(株)そのものかもしれない。私が経済アナリストでないことを前提で言わせてもらえば、この世界の低金利は円高に振れ、いずれ外貨預金や外国債権への投資のチャンスが来るだろう。それがいつかはわからないが、サブプライムローン問題が表面化してもうすぐ2年。米欧は対応が早いので10年を失うことはあるまいが、1年や2年で解決するとも思えない。そして、次のブームは新エネルギー(太陽光発電など)関連だと言うアナリストは多い。ちょうどこの分野で日本の技術は世界のトップレベルにある。比較的財務体質がしっかりした日本株への投資も魅力を増すだろう。谷深ければ山高しである。まず、円高だろう。この稿が掲載されるころにはかなり進行しているかもしれない。しかし、慌てることはない。時間はたっぷりある。
この円高で、またぞろM&Aや企業買収が活発になってきたのも興味深い。歴史は繰り返される。

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