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忙中閑

更新 2006.11.15 (作成 2006.11.15)

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第3章 動く 4.忙中閑

3人は平島という小さな岩場に渡礁した。
秋の磯は魚の宝庫である。ひらまさ、はまち、グレ、鯛、イサキ、石鯛、チヌ、スズキなど、どれでもいける。特に浜田周りでは、たまにではあるが珍しいこぶダイが釣れることでも有名である。今回は、“ひらまさ”狙いである。
ひらまさは、大きいものは1メートルにもなる回遊魚であるが、通常は7、80センチというところが多い。ひらまさはブリに似た魚ですこぶる旨い。ブリは刺身にして長く置くと若干色が黒ずんでくるが、ひらまさは変わらない。そのため料亭などからの引き合いが多く、一般市場にはなかなか出回らない魚だ。
ひらまさは回遊魚だけに引きが強い。磯際まで来ると体を横に寝かせ、体全体で死に物狂いに暴れまわり、不覚にも口にしてしまった仕掛けを切ろうと岩陰に潜ろうとする。この瞬間、魚体がキラキラと波間に輝き実に美しい。潜られたら岩角で糸を引きずられ、切られてしまう。この磯際でのあしらいが腕の見せ所であり、醍醐味である。船釣りとの大きな違いはここにある。まさに魚との格闘で、この手応えがたまらない。
平田と岩井はひらまさ釣りに何度も挑戦したが、なかなか釣れない。2人で3回行って1匹釣れたらいいほうであろうか。
どちらか一方しか釣れないときは、二枚に下ろし片身を相手に持って帰らせるのが平田らの遊びのルールになっている。「俺が釣ったのだから」なんてケチなことは言わない。お互いの食卓を賑わせることが嬉しいのだ。
この日は、岩井が1匹上げた。
ひらまさは群れで回遊しているから一度に当たりが来る。そのときは磯がお祭り騒ぎになる。平田と作田にも一度ずつ当たりがあったが磯際でやられた。その後は夕方まで粘ったがついに釣れなかった。
それでも全てを忘れて釣りに没頭し、潮の香りを満喫できて十分満足である。
紫雲がたなびき始め、夕日が大きくなった。沖を行く漁船のシルエットが殊更感傷を誘う。
「ヒーさん、きれいやね」と作田が感慨深げにめでた。
「本当にそうですね。日御碕の夕日はもっときれいですよ」と、米子出身の岩井。
島根県日御碕の夕日は日本一見事なことで知られている。また、ウミネコの生息地としても夙(つと)に有名である。
迎えの渡船が来るまでの間、3人は腰を下ろし水平線を眺めながら、「海はいいな」と、感慨深げに口を揃えた。広い海を見ていると男のロマンが果てしなく続くようだ。
一時金の交渉、要求基準の見直しと大きな課題を抱え、多忙な日々が続く中での束の間の休息となった。

釣りからちょうど1週間後、来週の火曜日が回答日という週末の22日、
「河村常務から飲みの誘いがありました。今夜空けておいてください」と作田から連絡が入った。
「専務の都合が今日がいいということなんですよ。交渉に入ったらまずいやろ、ということもあってお受けしたんです。よろしくお願いします」
案内を受けたのは‘長野’という高級料亭である。4人は時間に遅れまいとタクシーを飛ばした。
長野へ着くと、既に後藤田と河村は待っていた。
‘長野’は、新月に勝るとも劣らない老舗の高級料亭である。後藤田や河村もよほど大事なお客でないとめったに使わないであろうと思われる料亭である。4人は初めて踏み入れる世界に目を見張った。
表は黒塀で囲ってあり、門被りの松をくぐると玄関まで敷かれた踏み石には打ち水がしっかり打たれ、玄関脇に塩が小皿に盛られていた。
案内された部屋は、20畳はあろうかと思われるゆったりとした広い部屋だった。“たまには、芸者たちが芸を披露するためかな”と平田は想像を膨らませた。
床の間を背にした上座が4席空けられていて、下座に後藤田と河村は座っていた。
「どうもすみません。遅くなりました」口々に腰をかがめてあいさつした。
「いやいや、私たちも今来たところです。さ、どうぞ」と、気を使わせまいとしているが、灰皿には4、5本の吸殻があるのを平田は認めた。
案内されるまま、上座に座ると、
「今日は、労使懇談会の約束もあるし、新しい執行部の前途を祝したいと思って、専務にお願いしました。硬い話は抜きでやりましょう」と、河村が切り出した。
「ありがとうございます」と、吉田が例の人懐っこい笑顔で嬉しそうにあいさつした。
「いや、私も労務担当として一度あいさつしなきゃいけないと思っていたところで、河村常務がいい機会をつくってくれました」
仲居たちがビールや突き出しを運んできた。一人ひとりに専属の仲居が付いた。こういうところではいつもそうなのか、それとも今日だけなのか。平田にはわからなかったが何でも頼みやすいので気持ちがいい。珍しい料理の名前や食べ方などを手ほどきしてくれた。
乾杯が済んだとき、豊岡が砕けた言い方で、
「ところで、もう儀式は終わったことにしまして、いつまでもこのままじゃ遠くて話が見えないからコの字にしましょう」と、言うが早いか豊岡は体を起こし、座卓と座椅子を動かし始めた。
「いつまでも専務や常務を下座に置いておくわけにはいかんやろ」と、上座に2人の席を作り、両脇にコの字型に2人ずつ座るように席を作った。なるほど顔が近くなった。
「さすが、料亭の若旦那やね。手際がいい」と、後藤田がニコニコしながら茶化した。
「常務、今日はありがとうございます。私の頼みを聞いてくれたんですね」
「そりゃそうだよ。約束だからな。約束を違えることが一番人間の信用をなくす。まして君たちは労働組合の幹部という大事な経営のパートナーだ。信頼をなくすわけにはいかないからな」
「嬉しいねー。信頼してもらっているんですね」
「そうさ、だから期待を裏切らないでくれよ」
「期待って、どのように思っておられるんですか。期待を裏切っているのは経営のほうですよね」シビアな話題だけに真顔では聞きづらい。吉田が冗談っぽく聞き返した。
「ウーン、いきなりストレートですか」後藤田が笑顔で受けた。
「まだまだ序の口ですよ。ジャブです。ジャブ」と、作田が口を挟んだ。
料亭の若旦那の采配や作田の冗談で座の固さはすっかり打ち解けた。
「今日は2つのテーマがあるのかな」後藤田が少し真顔になった。

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