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やじろべえ

更新 2016.05.18(作成 2007.05.07)

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第3章 動く 21.やじろべえ

話は少しさかのぼる。年末一時金交渉が妥結した週末の12月20日のことだった。後藤田は河村を誘い、組合三役と広島市内の小料理屋にいた。
後藤田が三役と会いたくて、忘年会と交渉の慰労会を兼ねて設定したものだ。
後藤田は、やはり今の経営はおかしいと思っている。しかし、その常識が通じない役員に腹立たしさを覚えながらも、どうしようもないもどかしさを感じていた。そこへ新しい組合が正常化を唱えて登場した。組合と結託して何かを企てようしているわけではないし、またできるものではないとも思っているが、なにか同志を得たような心強さと喜びを感じていた。自らの栄達や保身ばかりに腐心する風潮がはびこる中で、純粋に会社のことを思っている社員がいることが嬉しかった。
賞与や業績見通しなど一通りの話を終えて、
「ところで筒井君の後任なんだけど、組合のほうで誰か推薦する人はいるのですか」と、後藤田は尋ねた。
「いえいえ、組合からそんなこと言うわけにはいきませんよ。専務が信じる人を選ばれたらいいと思います」吉田が答えた。
「ウーン、そうですか。私は川岸君でどうかなと思っています。彼は若いが物事の道理を大局的に考えるし、部下からの信望も厚いようです。河村さんはどう思いますか」
「アッ、彼ならいいと思います。営業所運営もしっかりしています。彼のところくらいでしょう、なんとか前年実績の売り上げを維持しているのは。委員長どうですか」
「そうですか。専務がそうお考えならそれでいいと思います。我々から誰がいいとか悪いとかは言えません」吉田は、いいとも悪いとも答えなった。
川岸勝仁は40才の福山営業所所長である。独自の人生哲学を持ち、とりわけ人に対しては独特の考え方を持っていた。営業所運営でも、厳しくもあるが道理を重んじていた。
「俺は、役員だろうがなんだろうが少しも怖いと思ったことはない。自分の仕事に全身全霊を傾けて全うしているからだ。やるべきことを一生懸命やっておれば、誰も揺さぶることはできない。俺が怖いのはあなたたちだ」と、公言してはばからず部下を大事にしていた。
彼の哲学では、
『部下に背を向けられたら所長は何もできないではないか。部下からの信頼こそが所長の命なのだ。所長が自らの立身出世に腐心したり、公私混同をやると心ある部下は逃げていくだろう。残るのは信頼できないオベンチャラ社員ばかりだ』
そう信じて日常行動も自らを厳しく律していた。理屈では誰もわかっているが、人に厳しく自分に甘いのが凡人である。人から信頼と高い評価を得る人というのは、こうした強い意思の持ち主なのである。
「課長以下のスタッフについてはどうですか」後藤田が、さらに続けた。
「今のスタッフではダメだと思います」平田は、人を悪く言うことに少し気が引けたが、それでも問題意識のない今のスタッフに失望していたから意を強くして主張した。賃金部長として、実務面での制度の立ち遅れが気になってしょうがなかったのだ。
「本当にバカばっかしですよ。あんなんじゃダメですよ」豊岡が横から遠慮のない言い方で付け足した。豊岡の言い方にはどこか茶目っ気がある。
後藤田は、それが滑稽なのかニコニコして、
「豊岡君は厳しいな」と茶化した。
「そんなことないですよ。のう平田よ、俺は優しいよのう」
「だけど本当に厳しいのは平田君だろうな」後藤田は笑いながら、豊岡と平田の両副委員長を手玉にして遊んでいる。
「エッ、私ですか。どうしてですか」突然自分に向けられた矛先に、今度は平田が驚いた。
「そうだな、豊岡君は厳しいことも言うが、彼の言葉の裏には遊びがある。言葉にフォーカスがかかっているんだよ。その点平田君には遊びがない。精密な機械のようだ。その分きつくなる。もう少しオブラートに包んだらいい」
「そうですか」平田は、今までこれでやってきたのにと思うだけに顔を赤らめてシュンとなった。
「いやいや、別にそれが悪いというのではないよ。ソフトとハードと、やじろべえのようで、バランスが取れて面白いよ。その真ん中の心棒に委員長と書記長がいて」と言いながら両手を上下に開いてみせた。
「両端に副委員長がいて、いい組み合わせだ」今度は左右に両手を広げ、体を揺らす身振りをしてみせた。
「それじゃ、まるでフラフラしてすぐこけると言わんばかりじゃないですか」吉田が笑いながら自嘲したので、爆笑を誘った。
「逆に、土台がぶれても立ち直るとも言えるんじゃないかな」と、今度は河村が持ち上げた。
「うまい。さすが常務。これですよ専務」と、豊岡が後藤田を揶揄した。
「そうか、そうか」後藤田は笑っている。
座が落ち着くのを見て、
「スタッフについては我々が言うまでもないのと違いますか。いずれ川岸さんが自分のいいようにしていきますよ」と、吉田は本題に戻った。川岸について何もコメントしていなかったが、結果として川岸を認める発言となった。この一言で、筒井の後任は川岸と後藤田は腹を決めた。
後藤田は、この人事について今回は社長の小田にも遠慮せず自分の考えを主張した。
40才の若さで所長からいきなり人事部長への大抜擢である。やっかみも含めて彼への社内の風当たりは当然強くなった。しかし、川岸にとってこの人事は次の飛躍への試金石である。周囲の逆風を強く感じながらも、後藤田の信任を自信にして、持ち前の度胸と信念に基づき人事行政を遂行した。
今春闘ではその川岸が交渉の相手である。組合にとっては手ごわい相手となった。

今春闘の要求は5.1%である。世間平均が7.3%であるから、極めて低い要求と言わざるを得ない。中央委員会でも、せめて要求だけでも世間並みにしようやとかなり揉めたが、執行部は会社が赤字の状態で、現実性のない要求を掲げても意味がないと押し通した。
交渉のテーマは、会社の正常化と人事制度の立ち遅れであった。賞与交渉と同様、正常化への道筋は全く見えてこず二進も三進(にっちもさっちも)もいかなかった。また、会社の第1回答は3.2%と組合の極めて控えめな要求をはるかに下回る低回答で、交渉はおのずと難航した。しかも、予想されたとおり初めての経験であるにもかかわらず川岸は思った以上に手ごわかった。それは、彼が必死で主体を持って訴えるからだ。
“会社がおかしいのは経営だけではない。社員にも責任がある。経営がおかしいなら社員が頑張らなければ会社はつぶれる。経営を悪く言うだけでは何も良くならない。やるべきことをやろう”というのが川岸の主張だ。交渉でもその持論を展開した。

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