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思惑

更新 2017.06.29 (作成 2005.08.24)

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第1章 転機 21.思惑

今度の再計算は少し手を焼いた。
前提条件がガラリと狂ってきたからである。広島工場の設備を山陰工場へ移設し出荷品目を見直さなければならなくなった。移設費用を算出し、それを元にした償却費用の再計算や出荷数の変更による売上の見直しなど、結構手間取った
平田が再計算と格闘しているある日、浮田は山本を飲みに誘った。2人とも酒は強い。特に山本は水のように飲む。山本の席は平田のすぐ隣だが、どんなに飲んだ翌日でも酒の匂いがしたことがない。完全に消化しきっているのだろう。
山本は日本酒が好きである。人肌燗を猪口で口に含み、唇を一文字にグッと引き締め実に旨そうに喉に流し込む。最初の一口を飲み干し、「旨いねー」と嬉しそうに言うのが山本の口癖である。
浮田は焼酎派である。特に沖縄の泡盛のファンであるが日ごろは身近なものを飲んでいる。多少糖尿病の気があるので体調のことも気にしているのだろう。
浮田は飲みに行くといっても高級料亭やクラブには行かない。せいぜいちょっとした小料理屋くらいである。座敷に上がり女将を相手に世間話をするのが好きだった。
今日の浮田は先日の投資案件のことなど忘れたかのように機嫌がいい。
山本も浮田の機嫌がいいのにホッとしながら、焼酎のお湯割りと自分用の酒、それに浮田の好きそうな料理などを女将に手配しいつものように気楽に浮田の相手をしていた。
「おッ、君は酒か」
「はい。私はこれです」
「高いのを飲むんじゃのう。わしが焼酎なのにわしよりいいものを飲むんじゃから、かなわんよ」
冗談まじりに嫌味の一言を言うのが浮田である。お互い酒のことでは気心を知り合っており、山本もそんなことには痛痒すら感じておらず動じる気配は微塵もない。
「これが実に旨いんですよ」と、ニコニコしながら返している。
「ところでなあ。山陰工場の人事だけどな、工場長を誰にしょうかと思っとるのよ」
“そら、来た。やっぱり山陰工場の話か”山本は、多少緊張が走った。
「誰かいい人おらんかね」
「ちょっと、私には……」
「何を言うとるんかね。工場の管理運営をやっとるんじゃろが。人事もしっかり把握しとかんといかんだろ」
「はぁ。すいません」ニコニコしながら多少はぐらかしたような雰囲気である。もともと山陰工場には反対の思いがあるだけに、自分には関係ないとでも言いたげだった。
浮田にしてみれば、その反骨精神を自分に引き寄せなければならない。
「わしはな、君でどうかと思っとるんだけどな」いきなり切り返した。
「えっ、私ですか」山本は仰天した。
工場長と言えば本社の部長クラスである。35才の山本にしては一大出世ということになる。同期の誰よりも、1歩も2歩も先んじることになる。
「工場長では、不服かね」言葉とは裏腹に、今度は逆に浮田の顔が笑っている。
「とんでもありません。あまりに突然なもので、まだ心の準備ができておりませんでして」
まだ半信半疑のまま、ハトが豆鉄砲でも食らったような顔をしている。目の前のコップ酒を一気にあおった。
「そうか。心の準備ができておらんから受けられんと言うんじゃな」
浮田も負けずに嫌味たっぷりなお返しをしてやった。
「とんでもありません。光栄です」山本は飛び上がり、姿勢を正して深々と頭を下げた。
まだ、メリット計算もでき上がっていないしこれから役員会も通さなくてはならないのだが、2人の思惑は符合した。
「ウン、それでいい。それにはどうしても役員会を通さなくてはならない。しっかり頼むよ」

山本は、先の製造部長である近野正寿常務が、そのずば抜けた明晰な頭脳を買って若くして製造部の課長に抜擢した人物である。
平田もまた、近野に薫陶を受けた一人である。まだ20代半ばの右も左もわからないころであるが、“経済とは何か”というビジネスマンとしての基本的哲学を形成していく基礎を学ばせてもらった。
しかし近野は、将来は社長を嘱望されていたのであるが、肺がんのため50半ばにして急逝してしまった。
平田は、「もし近野常務が生きておられたらこんなことにはならないだろうに」と、つくづく思うこの頃である。
浮田にしてみれば、山本と平田は近野のひも付きという印象をどうしてもぬぐい捨てられなかった。近野ができた人物であったし、この近野に鍛えられた2人は考え方や物の見方がしっかりしており、なかなか思いどおりにならない。
また、何かにつけ近野と比較されているようで、2人の存在は目障りでしようがなかった。
浮田は案外肝っ玉の小さな男で、猜疑心も強かった。
“近野が引き上げた人物である。自分に心底追随しているとは思えない”
浮田にしてみれば、自分の周りをシンパで固めたくて仕方ないのであるが、山本ができるだけにこれまで外す理由もチャンスも無かったのである。こんな切れ者を身近に置いておくことは、危険極まりない。
山本は頭がよく、論理構成は誰にも引けをとらない。2回目の計算も山本は多くを語らなかったがそれだけに何か含むところがありそうで、浮田は不気味でしかたがなかった。
今回の案件も、実務担当者の直属上司である山本が「ウン」と言わなければ成就させるのは難しい。山本を籠絡するにはこの手しかなかった。
いいチャンスである。

人事の深層では、こんなこともありである。
いや、むしろ人事部に力がない中国食品の現状では、これが人事の真相であったかもしれない。人事部は、辞令発行のための事務家業と給与計算業務屋になりきっており、現状に甘んじてしまっている。
人事とは何か。歴史の浅い中国食品では、人事のあるべき姿をまだ誰も描ききれていなかった。

山本は、本社の中枢にいてこそ、その力を存分に発揮することができるのであって、どう見ても工場長タイプではない。
工場というところは技術屋集団で職人気質の人間が多い。しかも、中国食品でもメイン工場では7、80人の大人数になることがある。これらをまとめるカリスマ性こそが求められるポストである。もちろん頭脳も要るが優秀な官吏タイプでは工場の人は付いて来ない。親分肌でどっしりと鷹揚に構え、包容力のある良き兄貴タイプがいいのである。山本のようなタイプでは人心が離れ、必ず問題を起こす。
しかし浮田は、そんなことは全く気に掛ける様子はない。山本がどうなろうと自分の城壁を固めることができればいいと考えているだけである。

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