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あり得べからざること


[K] 仕事・職場

出張にでる前日は決まって明け方近くまで仕事がかかってしまいます。
この日も自宅に帰れたのが朝の5時過ぎ。一瞬だけ仮眠をとって、大慌てで出かけることになりました。
準備をしながら、テレビの天気予報をチェック。
出張先は台風が通過中で大雨の様子。飛行機でなく新幹線にしておいて正解だな、と自己満足。え?と、折り畳み傘は持ってかなきゃ。
次に目に飛び込んできたのが占い。今日の運勢は最低だって。当たるとは思ってないものの、出張に出かける日に運が最低というのも気がそがれます。
こんな日は忘れ物に注意だな。

ところが、自宅を出るとき携帯が見当たりません。そうか、さっき慌てて帰ってきたから会社のカバンの中か。傘も会社だな。一旦会社に寄ることにし、急いで自宅を出ました。
しかし会社にも携帯が見当たりません。それに出張用の傘もない。そう言えば傘は昨日だったか、夕方急に雨が降り出したので、スタッフに貸したままだった。携帯は? カバンでなく、前日のスーツのポケットの中か? いずれにしてももう時間がありません。出発しなきゃ。

新幹線には何とか飛び乗ることができました。でも、携帯を持たずに出張に出るのはちょっと不安です。傘もない。向こうは降ってるだろうな。まあいいや、とにかく今は眠い。一眠りして、あとのことは目が覚めてから考えよう。

新幹線の中では爆睡し、まばたきする間に現地に着きました。幸い新幹線は遅れずに到着しましたが、現地の在来線はかなり乱れていました。取りあえず、訪問予定のお客さまに電話を入れておくか。公衆電話は......。あっ!
このときはじめて気付きました。携帯がないということは、お客さまの電話番号もわかりません。携帯を持つようになり、アドレス帳もいつの間にか持ち歩かなくなっていたからです。

そうしているうちに3番線に目的地に行く電車が入ってきた様子。そこでホームを移動し、電車に乗り込んで持ってきていたパソコンを取り出し、メールで連絡を入れました。少し遅れるかもしれないけど、なんとか行けると思います、と。
ところが、時間になっても電車は一向に動き出そうとしません。すると7番線の電車が先にでるとの案内。パソコンをしまい、その重いバックを持ってホームを移動です。それまでも案内は二転三転し、その都度重い荷物を持って行ったり来たり。まるで駅全体があみだくじのよう。しかも何度も外すし......。これも今日の運かな。

7番線の電車は本当に出発するようで、ギリギリ飛び乗ることができました。汗だくで座りたかったけど空席はありません。着いたらタクシー乗り場まで急がないといけないので、そのまま連結部分のドアのところに立って行くことにしました。
走り出すと順調で、これなら10分遅れくらいで訪問できそうです。台風だし許される範囲かと一安心。昨晩からずっと時間に追われて気が張っていましたが、やっと気持ちもスーッと楽になりました。そう、スーッと。

そのときです。
電車が目的の駅に到着する前に、床に置いたバックから資料を確認しておこうとかがんだときです。
バリッと何かを引き裂く音が。そのとき、私の耳にはお気に入りのiPodのイヤホーンが入っていたので、何の音なのかすぐには理解できませんでした。いえ、理解したくありませんでした。
でも、何やらスーッとする感覚が。それもお尻の辺りに。
まさか、そんなことがあるわけがありません。いえ、あってはいけません。
私はこれからお客さまのところに行くのですから。しかもすでに時間に遅れているのですから。そして明日も連続して出張なのですから。

しかし、そんな私の期待は無残にも裏切られました。恐る恐るお尻に手を持っていくと、紛れも無く、下着に手が触れてしまいます。しかもかなり広範に。

スーッと。 さっきまで大汗で服がべた付いていたはずなのに、今はお尻から大腿部にさわやかに空気が流れてきます。そう言えば、今朝、クリーニングから返ってきていたスーツを着ようとしたとき、タグに「破れ」というチェックが入っていました。ですが、これは買って間も無いスーツ。そんなはずないと一応ざっとチェックはしたのですが、そのときは見つけることができませんでした。急いでいたし。
そうか、こういうことか。「破れ」とは。朝の占いは......。

頭の混乱は収まらないのに、電車は容赦なくホームへ滑り込んでいきます。
ここで降りないわけにはいきません。とにかく何かで隠さなきゃ。脱いでいた上着を羽織ってみるもののお尻の全部は隠れません。これじゃダメだ。もう一度上着を脱いで、今度は腰に巻き付けてみました。いかん、いかん、スーツの上着を腰に巻き付けている人なんかいないし、こんな格好でお客さまへ行けるわけがありません。
幸いその日持ってきたバックには肩に担ぐベルトがついていました。そのベルトを一番長くし、肩にかけてバックを後に回すと何とかお尻が隠れてくれました。
これならホームに降りられる。改札を出たらコンビニに駆け込もう。そして、安全ピンか裁縫セットを調達しよう。それにしても、ズボンが破れるなんて中学以来だな。昔はよくあったから、応急処置は慣れたもんさ。とにかく、まずはコンビニだ。

ホームに降りて気持ちは急いでいても、さっそうと、というわけにはいきません。背中の人を気にしつつ、後ろ手にバックを押さえて何ともしまらない歩き方です。
改札を出るには、一旦このホームの階段を下りて、地下道をくぐって3つ先の階段をもう一度上ります。恥ずかしいのはその間だけ。気にするとむしろ変だから、堂々と歩けばいいんだ。そう思うと少し腹も据わってきました。

そのときでした。 地下道の2つ目の階段を通りすぎようとしたとき、ホームから女子高生が大勢下りてきました。地方都市といっても、最近の女子高生は見た目も都心部と差がありません。制服のスカートは短く、傍若無人に横いっぱいに広がって階段を下りてきます。
まずい、と思ったときには私は彼女達の前を通り過ぎていました。この駅の改札は1つしかなく、彼女達は間違いなく私の後から付いてくるはずです。

そうです。改札を出るには、私は次の階段を上らないといけないのです。この、地下道いっぱいにけたたましい話し声を響かせる女子高生達の目の前を歩いて......。
階段を登る順序が逆だったら、きっと彼女達はスカートの裾を押さえたり、カバンをお尻に当てたりしながら、上っていくはずです。私はいつものように、一瞬くらいは上目遣いにはなるかもしれませんが、変な疑いをかけられぬよう、視線を足下に落として上っていくんだろうと思います。そして私に警戒心を示そうものなら、見やしねーよ、と心の中で反発するんだろうと思います。いつもなら、そういうパターンであるはずなのです。

だからといって、私が今この場に立ち止まり、彼女達を行き過ぎるのを待ってその後から階段を上るなんてことはできません。それこそチカンと間違われかねません。
そう、私は今、勇気を振り絞ってこの階段を上らないといけないのです。後から聞こえてくるけたたましい声が、どんなに胸を突き刺してこようとも......。

どのくらいの時間だったんでしょう。
こんなに緊張し、後の視線を気にしながら階段を上ったのは初めてです。女子高生はいつもこんな気持ちで階段を登っているのでしょうか?
いくつの視線が自分の臀部に集まっていたのか。私は彼女達に気づかれずに登れたのでしょうか。ひょっとすると誰かが気づいて、小声でささやきあっていたのかもしれません。

そんなことはどうでもいい。階段を上り切ると、とにかく私は立ち止まらず、後を振り向かず、足早に改札を出てコンビニに向かいました。運良く、安全ピンも裁縫セットもすぐに見つかりました。もちろん迷いなどなし。両方をわしづかみにし、レジを済まし、駅横の公衆トイレに向かいました。

ところがあいにく、2つある大便用がどちらもふさがっています。こんなときにー。何やってんだよ。イライラ、イライラ......。いっそここでズボンを脱いで縫うか。でも、ここは外から丸見えだし、座るところも無いし。他に行くといっても雨も降ってるし、傘もない。それより、お客さまに電話しなきゃ。でも、携帯もない。公衆電話を探してるスキに誰かに順番を取られるのは悔しい。

それにしても人間の身体は不思議なものです。トイレの前でイライラしているうちに、にわかに催してきました。早く縫いたいし、したい。もう待つしかない。いつまでやってんだ。早くしろー。

確かここのトイレは、2つあるうちの奥のほうは和式だった記憶があります。縫うなら洋式でないと......。そんなことを考えていると、やっと水を流す音がしました。どっちだ。ラッキーなことに手前のドアから中から人が出てきました。私はすかさず、その男性と入れ違いにドアの中に滑り込みました。今出てきた男性が若いヤツだったか、中年だったか、まったく記憶がないくらいに一目散に。

しかし、なんと浅はかだったんでしょう。奥のトイレが和式だったから、手前は洋式だとばかり決め込んでいました。しかし、ドアの内側には便座なく、平らな床にぽっかり便器が口を開けているだけでした。しかも、雨のせいか、そうでない原因か、床一面がびっしょり濡れています。
どうしよう。とにかく一度脱いで確かめめなきゃ。この薄暗い、狭い、汚れた空間の中で裁縫は無理にしても、安全ピンなら留めることができる。

浅はかさはそれだけに留まりませんでした。
ズボンを抜いでみると、予想どおりお尻は大きく口を開けていました。私の経験だと、ズボンのお尻が破れるというのは、縫い合わせの部分がほつれることだったはずです。そう決めつけていました。しかし、その大きな口はほつれではなく、生地が裂けてしまっていたのです。腰の辺りから大腿部にかけてバッサリと。

参った。これだと、安全ピンも裁縫セットも役に立ちません。
頭の中は真っ白です。次の手を考えなきゃ。スーッと汗が引き、しかし、さっきからの催しが容赦なくお腹を襲います。なんの抵抗もできず、取りあえず下着を下ろしてその場に屈みこんでしまいました。こんなときに......。

用をたすと、もう一度その破れたズボンをはきました。これ以上裂けないように、濡れた床に付かないように。
駅の前には商店街がありますが、出張先の知らない土地。この格好で紳士服店を探し回る勇気はないし、時間もない。傘もない。長年出張をしてきた知恵で、こういうときはタクシーに限ります。どこでもいいからタクシーの運転手さんに連れていってもらおう。そう思って、駅からタクシーに飛び乗りました。
「どちらまで......」
「どこでもいいです!」
運転者さんのアッケに取られてた顔を見て、少し冷静さを取り戻しました。
「あ、いえ、どこでもいいので紳士服店に連れていってください。スーツが破れて、出張中で、お客さんの所に行けないので、とにかく買いたいんです」
運転手さんは事情を理解してくれたようで、
「それなら○山がいいでしょう。○山でいいですか?」
「はい、それで」
運転者さんは、全国チェーンの紳士服の郊外店へ連れていってくれました。
タクシーの後部座席に座っている間は、妙な安堵感があります。ここに座っている間は誰の目も気にしなくて良いし、悪夢の駅を離れることができたのですから。
運転手さんは気さくな人で、「遠方からですか」と話しかけてくれます。私もそれなりに返事を返しますが、やはりうわの空。頭の中は「着いたら5分で選んで、裾上げを10分でしてもらって、その間にお客さまに電話して......」と時間計算ばかりしていました。

店につき、店内に入りました。
平日で台風一過だったためか、広い店内に客らしき人は1人もいません。奥のほうに男女数名の店員がきょとんとこちらを見てますが、「いらっしゃいませ」もなく、誰も近づいてこようとしません。
こんな日に、スーツを着て大きなバックを持って慌てて入ってきたためか、セールスと思ったのでしょうか。私も仕方なく少し大きな声で、
「すみませーん」
「はい、何か」
「あの、スーツ買います。すぐに着ていけるヤツ。ズボンが破れたので」
やっと客だと認識してくれたのか、1人の中年の男性店員がにこやかな表情を浮かべて応対に出て来てくれました。
「どのようなタイプのものをお探しですか」
「何でもいいです。サイズが合うヤツで、すぐに着ていけるヤツ」
「じゃちょっと、サイズをお測りいたしましょう」
私の焦り具合を察すると、次第にテンポを合わせくれるようになりました。
「お客さまでしたら、こちらあたりのものであればぴったりだと思います」
店員が案内してくれたコーナーのスーツには、バーゲン、半額というタグが掛かっています。私も一つ安心し、
「じゃ、これ」
私は一番手前にあったスーツを指さし、店員の促しに応じて上着を羽織ってみました。肩も、袖丈も、サイズは確かにピッタリです。
「こちらに鏡がございますので......」
鏡をのぞくと、鏡に映った自分の後方で2人の女性店員がこちらを見ています。私がスーツを羽織り、鏡に向かってすましてみても、女性たちが見ている私の後ろ姿は、お尻のあたりがぱっくり口を開け、下着丸出しでこっけいな姿に見えているはずです。
そう思うと、鏡に写った自分の姿も、何とも間抜けに見えてきました。髪もシャツも汗でべたべたで、新品のスーツだけが浮いています。
「あっ」
そのとき着けていたネクタイとシャツが、スーツと全くチグハグです。今日のお客さんは事情を話すにしても、明日もあります。 「すみません、考えてみたら、今持っているタイとシャツに合う色目のものにしないと......」
「それでしたら、ダーク系のものが比較的何にでも合いやすいですね。あ、ちょっとお持ちください」
私がさっきのスーツの隣に掛かっていたものを手に取ろうとすると、店員は奥のほうから別のものを取り出してきました。店員の勧めで羽織ってみると、さっきのものより落ち着いて見えます。
「じゃあ、これにします」
ズボンのウエストもピッタリで、裾丈を合わせて試着は完了です。
「では、今すぐ、テープで裾をあげておきますので」

私はこれでお客さまへ行ける。と少し自信を取り戻すことができました。ただ、裾上げをしてもらうために、もう一度破れたズボンに履き換えないといけません。何とも情けない気分ですが、それもあと数分の辛抱です。

時間を確認すると、すでにお客さまとの約束の時間を30分以上超過しています。裾上げを待ってる間に、女性の店員にお客さまの電話番号を調べてもらい、やっと連絡を入れました。「ズボンが破れて」「携帯を忘れて」「今、○山で買ったところで」というのも何ともウソ臭い言い訳を言ってるようで、少し自己嫌悪でした。

支払も済ましてしまおうとカードを取り出したときでした。
「○山のポイント・カードはお持ちですか?」
「いえ」
「でしたら、こちらにご入会いただきますと......」
今の私にとって、そのカードの特典など全く興味の無いことです。この店にも二度と来ないでしょうし、地元のチェーン店舗にも行かないでしょう。それより、お尻の破れたズボンを再び履いて待たされていることの惨めさのせいか、その話を聞いて判断する気分にもなれません。
だけど、その女性店員は悪気は無く、とても丁寧に、自分の役割をしっかりと果たそうとしています。私は、親切なお店の人たちへの感謝の気持ちもあり、「じゃあ入ります」と言って二度と使うことは無いであろうカードの申し込み用紙を記入しました。本心は、その丁寧な説明をさえ切りたかっただけかもしれませんが。

申し込み用紙を記入し、支払も済ませたころ、裾上げも仕上がりました。私は新しいスーツに着替えて、着て来たほうを持ち帰ることにしました。最初は女性の店員が手提げ袋に入れてくれようとしたのですが、男性の店員のほうがそれだと荷物になるからといってバックに収まるように小さく折り畳み、紙袋に入れ直してくれました。
私も一旦はそれをバックに収めようとしたのですが、少し考え、
「すみません、何か別の袋をもらえますか」とお願いし、さっきの手提げ袋に入れ直してもらいました。
これからお客さまへ行くのに、この店のロゴが入った袋が欲しかったためですが、ちょっと店員さん同士のいざこざの種を作ってしまったかなと反省しました。

タクシーを呼んでもらい、私は親切な店員の皆さんに見送られながら店を出ました。もう背中を気にする必要もありません。タクシーの中で、新たに作ったカードやレシートを整理しながら、気の良い人たちだったな、と暖かい気分になりました。 ただ、カードで支払ったので気づきませんでしたが、レシートの金額を見るとそれなりの値段になっています。とてもバーゲンで半額という値段ではない。そう言えば、私が選んだスーツはバーゲンのコーナーにあったものでなく、店員が奥から持ってきたものでした。
やられたかな、という気もしましたが、何とか危機(?)を乗り越えた安堵感もあり、彼らが親切に対応してくれたことへの感謝のほうが大きく心に残った1日でした。

ズボン
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